2007年 12月 8日 (土) 

       

■ 〈賢治の置土産〉33 岡澤敏男 むづかしげな七つ森

 ■むづかしげな七つ森

  賢治と七つ森の出会いはいつのころだったのか。作品に初見される七つ森は、盛岡高等農林へ入学したばかりの「大正四年四月より」の見出しから始まる次の5首の作品のなかに描かれています。

  @かがやけるかれ草丘のふもとにてうまやのなかのうすしめりかな
  Aゆがみうつり馬のひとみにうるむかも五月の丘にひらくる戸口
  Bひるま来しかれ草丘のきれぎれはまどろみのそらをひらめき過ぐる
  Cをちやまに雪かゞやくを雲脚の七つ森にはをきな草咲く
  D雲ちゞれつめたくひかるうすれ日をちがやすがるゝ丘にきたりぬ

  一連の歌のなかのAから5月ごろの作とわかります。このように高農に入学して最初の歌が七つ森だったことは、これ以前にすでに七つ森と邂逅(かいこう)している事実を告げているのです。

  中学時代の級友阿部孝が語るように、愛用のハンマーを腰に岩石標本を採集するために七つ森を訪れていたのかもしれません。しかし中学時代の作品の中に七つ森の名も、またそれらしい丘を詠みこんだ歌をも見いだせないので、七つ森を主題にした作品は大正4年5月の5首に始まると考えます。

  これらの歌にみられる現場は、秋田街道を西行して尾入野(つなぎ十文字)あたりから七つ森を眺望した情趣でしょう。その当時、この近辺に見られる集落は賢治が詩篇「小岩井農場」で〈茶褐部落〉と形容したようにわらぶきの農家が点在するだけで、現在のように建物がひしめき合ってはいなかったから七つの丘の幾つかを展望できる視野があったとみられます。

  Bは昼過ぎでまどろんでいるような空の下を西に進んでいくと、連なる枯草の残丘が明滅して見えたのでしょう。やがて道は生森(おおもり)にさしかかるのです。それがCの歌です。

  遠く秋田駒ケ岳などの連山にまだ残雪が輝く5月の風光のなかを西より流れて来る雲の影でくらくなった七つ森の道端に、賢治の大好きな愛らしいオキナグサが咲いているのです。高農に入学したばかりの明るい気分に満ちた賢治の心情から生まれた歌でしょうか。

  ところが最終Dの歌にはどこか憂愁の思いが漂っているのです。愛用のハンマーで岩石を砕きながら七つ森を生森から見立森(みてのもり)に向かって行くと、やがてちぢれた雲の中で夕日がつめたく光り、枯れかかったチガヤが一面に茂る丘にたどりつきました。

  遠くから眺めると暖かな枯草の丘のようですが、実際はどの丘も足の踏み場もなく枯れチガヤが茂ってガサガサ泣いているのです。冷たいうすれ日やすがるるチガヤに精神的な疲労感が隠喩(ゆ)されています。この疲労感はやがて残丘の生い立ちや七つ森が「かれ草丘」となった秘密を探りあてるのです。
灌木もかがやくものを七つ森あまり陰気なLipa riteかな(大正5年10月中旬より)・をきな草とりてかざせど七つ森雲のこなたにむづかしき面(おも)(大正6年4月)


 ■七つ森の立木の総量(『雫石町史』より)

  「明治四十一年の出願の際には凡そ八万五千本であり、四十三年三月搬送について鉄道院に申請した時には十万本余で、大正十年八月雫石村役場発行の〔雫石村村有林概況〕には約十三万本と記録されている。」 注明治42年売却の七つ森の立木(松材)の総量は三通りの記録があり一致しないが、3万8千560円で売却している。

  ■七つ森の造林計画(『雫石町史』より)

   第一期造林計画(大正5年より11年まで)
  大正5年 2町5反   杉7千5百本
   〃6年 39町1反余  赤松
   〃7年 47町9反余  赤松
   〃8年 41町8反余  赤松
   〃9年 33町3反余  赤松
   〃 〃 4町     杉 1万2千本
   〃10年 23町1反余  赤松
   〃11年 22町4反余  赤松
  計 赤松(天然生育)207町7反余
    杉 (人工植樹)  6町5反
  注杉の人工植林は成績が思わしくなく、大正9年の杉の植林は赤松に変更されている。

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