■ 〈続・岩手の先人とカナダ〉13 菊池孝育 原敬3
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外務省復帰前後の原敬について若干述べる。
明治25年8月10日付の原の日記に「陸奥外相より相談すべき件あり至急帰京せよとの電報ありたるに因り、明朝出發帰京すべき旨返電せり」とある。その時夫人同伴で京都に滞在中であった。11日帰京して、12日「陸奥外相に面會し外務省に就職のこと決定す」となる。この経緯から、外務省復帰は陸奥宗光の強い要請によるものと推測される。続いて翌13日「外務省通商局長に任ぜられる、退官後六ヶ月にて再び就官せるなり」と記している。大臣官房移民課長兼務であった。
同年8月中旬以降、原は公私ともに忙しい日々を送った。外交官僚としての7年ものキャリアを持つ原の復帰は、陸奥の意向もさることながら、外務省待望の人事でもあった。前任者との事務の引き継ぎはもちろんのこと、他部署の懸案処理についても指導助言を求められて、原は多忙を極めたのである。
9月6日には「外務省取調局長兼務を命ぜらる」が、原は次のような感懐を付記している。「本省には是迄外交官の養成なし故に人物に乏しき感ありたり」よって兼務もやむを得ないことを言外に暗示している。従って原のカバーすべき業務は多岐に渡った。加えて陸奥宗光は原の有能さを高く評価していた。農商務省以来、原は陸奥の側近の一人であった。外務省においても陸奥の信任がいよいよ厚く、同八日には「防穀令損害賠償談判其他の件に付朝鮮出張」を原に懇請するほどだった。
移民課長としての原の初仕事は、8月22日、サンフランシスコ領事に対して「米国アイダホ州ナンパ地方にて日本人百餘名放逐せられたりとて米国新聞に登載ありしを(略)出張取調」を電報で命じたことであった。
この頃、貞子夫人が病に倒れ、私生活も厳しい状況にあった。夫人の小康を待って、9月13日、大磯に転地療養させるのに同行した。翌14日、原のみ帰京している。25日に夫人を東京に連れ戻すまで、公務の合間を縫って大磯の夫人を見舞っている。
カナダへの移民に関しては、バンクーバー領事代理報告(前回詳述)をめぐる照会、回答等、この超繁忙期に、最初の対応を行ったのである。
「原移民課長ヨリ晩香坡在勤鬼頭副領事宛、神戸移民會社取扱出稼人救濟ニ關スル件、九月十九日發遣」という文書がある。内容は次の通りである。
貴殿からの先般のご報告によれば、坑夫達の救済資金として約1千ドル必要とのことであったが、幸い兵庫県知事が上京中であったので、面談の上その旨申し伝えた。その後、知事によれば移民会社に「申通」し既に送金したとのことである。出稼人の今後については、確固たる就労の見込みが立たないのであれば貴殿の考えの通り帰国させるのが至当である。兵庫県知事も同様の措置を望んでいると考える。
しかしながら当該移民会社が、新たに出稼移民を募ってカナダへ送り出す計画を進めている、との噂が新聞等で報道された。実情を調べたところその通りであったので、同計画差し止めの処置を講じた。「何レ貴下御報告ノ件ニ就而者兵庫縣ヨリ何分ノ義公然可申越候間其上公信ヲ以テ次官ヨリ囘答可申進候得共不取敢今日迄之形行小官ヨリ及御内報置候也」
以上である。19日大磯から帰京後、慌ただしく決済した文書である。通常、領事館宛の公文書は本省次官から領事または領事代理宛となっている。しかしこの文書の場合、移民課長より副領事宛となっていて、公式に次官から通達があるまでの「内報」の形式を取っている。以後も原は在外公館における緊急事態にこの形式で対処している。一歩間違うと、独断専行に陥りかねない手法であった。在外公館の問題には迅速に対応しなければ時宜を失する、と考えたものであろう。これは明治18年からのパリ公使館在任中の体験から得た発想と推測される。
また当時の外務省は、諸外国との条約改正を始めとする難問題を多く抱えていた。陸奥大臣や林次官にしても、在外公館に関する外交事項は原に任せておけば間違いない、と信頼しきっていたことも見逃せない事実である。
9月27日、原は朝鮮出張の途に就いた。28日の日記に「午後六時神戸三ノ宮停車場より海岸常磐舎に立寄る。(略)神戸移民會社より加奈陀に送りたる出稼人當時無職呼戻を達し置きたる件に付談話あり、知事承諾せば異議なき旨を示し置きたり」と記した。
神戸は外国への有力な窓口港であった。
外務省の出先機関も幾つか存在した。「常磐舎」は旅館の類であろう。「談話」は、出先機関所属の官吏との協議を指す。出稼坑夫を帰国させることについて、兵庫県知事さえ賛成であれば、外務省として異存がない旨、ダメを押して朝鮮に出発した。
◇ ◇
筆者注、「常磐舎」は明治25年8月初旬ラフカディオ・ハーン夫妻が滞在した神戸常磐舎と同じ旅館と推測される。
原移民課長は早速、バンクーバー副領事鬼頭悌二郎宛返書を認めた。鬼頭は職位は副領事であったが、当時領事不在のため、領事代理を命じられていたと考えられる。領事館としての公文書には領事代理の肩書きを使用している。本省からの公文書も領事代理宛となっている。 |
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