2007年 12月 14日 (金) 

       

■  〈古文書を旅する〉196 工藤利悦 江戸屋敷の詳細にうちて幕府に書き上げ

 【解説】

  この記録は南部家の江戸屋敷について幕府に書き上げた写しとあるが、幕府に提出した時期は定かでない。拝領とある上屋敷は、現在の皇居前広場に隣接する地域。日比谷公園は南部家など数家の屋敷跡地。

  拝領時期については慶長七年(一六〇二年)説(「増補国統年表」)があり、寛永九年(一六三四年)に利直の家督を継いだ重直は、慶長十一年(一六〇六年)にこの屋敷で誕生したと伝える。

  「寛永江戸全図」によれば、櫻田の上屋敷(幸橋御門内の御屋敷ともいう)に「南部しなの(利直)」とある一方、道路を隔てて幸橋御門際に嫡子である「南部山城(重直)」屋敷を見る。

  余談ながら、将軍家より寵(ちょう)愛をうけた南部家の様子がうかがわれる。また、同じく拝領とある麻布の下屋敷(港区・有栖川宮記念公園)は、当初、忠臣蔵で著明な播州赤穂の浅野内匠頭殿下屋敷。

  この記録に「明暦・万治の頃ヵ、其後の御書上か」の一言が書き留められた背景には、明暦二年(一六五六年)に赤坂の南部家下屋敷と麻布屋敷を交換した経過が言わしめたものとうかがわれる。

  「内史略」は元禄の頃の状況を伝えて、「一、江戸櫻田御上屋敷 本地坪数左の通り、東西二万五十五間半 南北二万五十五間、此坪数三千五十二坪半」「一、御中屋敷(註=愛宕の下屋敷か)、南北の方五十四間四尺 東西の方三十四間四尺、この坪数千八百九十二坪五分」「一、江戸麻布一本松御下屋敷坪数左の通り、北側百七十二間、西側四十七間二尺七寸、南側百八十二間、山通り二百二十二間、この坪数二万四百三十七坪」(『内史略』前十一)としている。

  また「一、元禄九年(一六九六年)十月十三日江戸愛宕の下御中屋敷類焼」とも伝えている(『内史略』后三)が、本文には愛宕の下の中屋敷は見えない。従って、元禄以降の記録と勘考される。

   ■ 麻布下屋鋪

  この屋敷は明暦二年(一六五六年)丙申二月五日、浅野内匠頭殿御下屋敷相対替えをした屋敷と伝える。「江戸諸所御屋鋪御調御普請之事」(篤焉家訓)に、「麻布御屋敷浅野内匠頭殿より金九百両にて御調え、右代は両度に遣わされ御普請。明暦三年丙酉四月下旬御取り付け、十二月十八日済み同十九日巳の刻御移徙す、右御普請惣奉行桜庭兵助、下田覚左衛門(下割愛)。右入方左の通り、小判九千二百七両一歩(以下の集計九千二百八両三歩 内訳に対し一両二歩寡少)、うち、八千四十二両 御家中御茶屋御泉水御入方、百八十両三歩 御植木御庭石代、六十四両 御庭石所々より集め候代共、二十二両 万御道具代、九百両 御屋敷代、合金九千三百三両一歩也(集計九千二百八両三歩 内訳九十四両二歩寡少)」とある。中屋敷と称した時代(「江戸切絵図」)もあった。

   ■ 上目黒村の抱え屋敷

  本文には六千二百四十三坪と見える。抱え屋敷とあるように幕府から拝領した屋敷ではない。

  「常府諸士御物成御擬」によれば、「練摩御屋敷御年貢金六両、内五月・七月・十月二両宛渡す」とあり、屋敷守相原源左衛門(二人扶持)は、寛政六年十二月に苗字帯刀御免となったこと。また別に作人扶持として七人扶持、作人給金並びに作道具代として金十四両および御馬飼料代が支給され、また人肥馬肥を与えて上下屋敷の食料供給基地としたこと。上下御屋敷の塵芥取り払いなどがこの屋敷の性格とみえる。

  現在、相原家薬医門(別名、南部の赤門・練馬区田柄五丁目)として、練馬区文化財に指定されている。

   ■ 深川猟師町の町並屋敷・清水御屋敷

  本文には二百六十三坪とある。前掲史料によれば、深川御年貢金として夏秋冬の三期に分けて各一両二朱宛の上納があり、深川町内名主へ一カ年金一両二朱の役料金が支出されていたことが知られる。屋敷守竹屋九兵衛の任務等に触れ、為御登米(おのぼせまい)着船に当たり、御雇船吟味のほか「御用物ならびに御家中用物登り下りともに万端世話仕り」の勤務によって、当初金三両を擬われているが、宝暦十四年六月より五人扶持加増とも見える。

  このほか、同記録には別に清水御屋敷のことが見え、「清水御屋敷守 太兵衛(金三両弐人扶持、但、中白米)、御年貢金として金七両三歩永百六十八文六分四厘(明細割愛)上納などが見える。

   ■ 芝田町八町目屋鋪

  本文には七百七十一坪、町屋敷によって届けていないとみえるが、江戸諸所御屋鋪御調御普請之事(「篤焉家訓」)には、御蔵屋敷として明暦三丁酉年七月に御調え、東は石川播磨守殿、西は稲葉能登守殿両人の浜屋敷なりとある。代金百五十両。表四十間裏行十八間なり。右御屋敷に御蔵(三間に十間)を建て入札百十壱両三歩、材木町亀屋三郎兵衛請取立。表長屋三間に十間、入札三十五両。万治元年戊戌閏十二月に普請成就。「長屋十間の内四間は御蔵守木屋四郎右衛門へ御借、表裏の掃除その外、公事役仕り候はず。残り五間は借屋に成され店賃一間に付き一カ月六匁宛を上げ候はず。一間は御蔵へ通り、金八十両海へ築出垣代、奉行玉井・勝又勤之。同四両 銀二匁五分五厘御蔵下土代。同二百三十両三歩 銀二匁二分 御作事入方、都合金三百八十両三歩」。

  公事役とは年貢を納めていたということか。屋敷の一部を貸して賃貸料収入があったことを伝えている。

   ■ 上志田村抱屋鋪

  本文には二万三千坪とあるが、寡聞にして上志田村の所在が確認出来ない。

   ■ 愛宕の下の中屋敷

  当初の所有時期は未詳であるが、篤焉家訓二十二之巻には元禄五年十月十三日愛宕下中屋鋪焼失。今秋田信濃守殿屋鋪なり、同一之巻には同十五壬午年二月十一日 行信公御代麻布御下屋鋪御類焼 重信公澁谷御屋鋪え御立除、「内史略」には元禄九年のことと見える。推して元禄五年の誤伝ではないか。

  一方、「雑書」同十四年六月二十三日条には「築地御屋敷(千二百坪)を愛宕下神尾五郎太夫屋敷(二千二百坪)と交換したことが見える。併せ考えるならば、渋谷御屋敷があり、愛宕の下の中屋敷は、前・後二期に及んで存在したことが垣間見えるようだが詳細は未詳である。

   ■ 三田中屋敷・築地中屋敷・新築地中屋鋪

  三田寺町にあったことから三田屋敷と称したが、当初分家三田家(旗本三千石)の屋敷であった。安永三年十一月に当主南部幸吉(後の利正)が利雄公の養嫡となり宗家に持ち込み中屋敷(翌四年二月拝領屋敷となる)とした。のち寛政四年四月に築地屋敷と交換(「竹田嘉良具理」)。

  『内史略』前二十四は「三田屋敷千五百坪御旗元衆御両所屋敷と御相対替 打金六百八十両を以て御小姓組山名平左衛門に五百三十坪 御書院番有馬伊織に五百坪 合千三十坪一構に成される」とある。

  その後、「竹田嘉良具理」は、文化元年九月徳川民部卿下屋敷拝領、小石川之内にて五百九坪余、築地御中屋敷と御取替成さる」あるが、「文化五年大名武鑑」には、交換したはずの築地中屋敷が、【上】外櫻田、大手より十八丁、【中】木挽丁つきぢ、【下】麻布なんぶ坂として見える。その間の経緯は未詳。

  その後、文政十一年に「御相対替成され候船越左門築地鉄炮洲居屋敷之儀、築地鉄炮洲中屋敷と相唱え候様仰せ出ださる」(「御家被仰出」)と見えるが、「篤焉家訓」二十四之巻には「文政十年に新築地御中屋鋪(但別名は築地門跡)を船越左門殿より弐千七百両に購入したが同十二年己丑三月二十八日神田さくま丁からの出火で類焼したことを伝えている。明治には入り、一時期ながら南部伯爵家は麻布屋敷を居屋敷として使用されていた。

  ■ 公儀へ諸御屋敷お届けのこと

  拝領 上御屋鋪 幸橋御門の内  六千十三坪余

  拝領 下御屋鋪 麻布一本松   二万八千坪

     抱屋鋪  上目黒村    六千二百四十三坪

     抱屋鋪  上志田村    二万三千坪

     町並屋敷 深川猟師町   二百六十三坪
 
     芝田町八町目御屋鋪    七百七十一坪

      この御屋敷は御払いに成される、ただし山田喜三郎町屋鋪にて御届けこれ無し。

   明暦・万治の頃か、その後の御書き上げか (篤焉家訓)

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