2007年 12月 15日 (土) 

       

■ 〈賢治の置土産〉34 岡澤敏男 賢治と高橋秀松

 ■賢治と高橋秀松

  賢治が晩年に中学時代から高等農林時代を回顧してメモした「東京」ノート、「文語詩篇」ノートをみると農林1年1学期の欄に興味をひく記事がみられる。

  「経済農場レッドチモシイトップ」「春木場ノ河原」「楠ジョントイフ犬」「雨ト楊」「東鬼越」

  このなかで「楠ジョン」という犬は、小岩井農場の医局(賢治のいう医院)で飼われていた愛犬で、院長楠(壟夫・はやお)さんの名から賢治は「楠ジョン」と呼んだものでしょう。

  この医局は当時の小岩井農場入り口から100メートルほど入った所にありました。経済農場とは高等農林の付属農場で御明神村(現雫石町御明神)にあり、学生たちの実習農場でした。

  当時は交通機関もなかったから上田の校舎から片道30キロほどの道程を徒歩で往復したのです。

  賢治は往路には秋田街道を西に向かい葛根田橋を渡って経済農場へ通ったが、帰路は雫石の宿場を七つ森方面に折れて網張街道に入り、小岩井農場内の医局を経て仁沢瀬から秋田街道に合流し上田に戻ったものとみられます。

  メモにある「春木場ノ河原」とは葛根川の河原のことで、経済農場の実習を終えて帰る際に学生たちが立ち寄り休息をとった河原だったのでしょう。

  大正6年7月に保阪嘉内ら『アザリア』会グループ4人で行った〈青春夜行〉の目的地を春木場の河原としたのは偶然なできごとではなかったのです。

  賢治は彼の伝記の証言者たちに恵まれていました。中学時代の阿部孝、高農1年生時代の高橋秀松、2年以降の保阪嘉内の3人は特に注目される友人です。このなかで大正4年に賢治といっしょに入学した高橋秀松(宮城農卒・農学科第1部)は寄宿舎(自啓寮)で同室だったことで親交を結び、土日には賢治から山野の跋渉(ばっしょう)に誘われて鉱石採集から岩手山の登山にも同行しました。

  初期短編「家長制度」の舞台となった丹藤川上流でのエピソードも秀松の証言で状況が明らかになったものです。秀松は5月の七つ森探訪にもあるいは同行したのかもしれません。あの日も5万分の1の地図とコンパス、手帳、それに柄の長いハンマーを腰に差していたのでしょう。

  そして6月ごろ、秀松は賢治と南昌山にメノウ採集に出かけ、頂上付近で猛烈な雷雨に遭ってずぶぬれになったことを証言しています。次の2首の歌はそのときの情景だったのかも知れません。

 
  まくろなる
  石をくだけばなほもさびし
  夕日は落ちぬ
  山の石原
 
  毒ケ森
  南昌山の一つらは
  ふとをどりたちてわがぬかにくる
 
  大正5年4月、2年生の賢治が室長となる南寮9号室に甲府中学出身の保阪嘉内(農学科第2部)が入室してきました。賢治は短歌日記を書く嘉内と親交が結ばれ、9月(2学期)のころより嘉内への手紙の頻度が秀松より多くなっていきました。

  ■賢さんの思いで(抜粋)  高橋秀松

  賢さんと初めて会ったのは大正四年四月盛岡高等農林学校の寄宿舎南寮一号室であった。…賢さんと私とは机を並べ、寝場所も隣り合っていた。…賢さんは休みとあれば私を誘って山野の跋渉が始まった。二人の仲は急に親しくなった。(中略)小岩井にも行った。岩手山に二度三度お供をした。…北上山地探訪の時は土曜の午後から出掛け姫神の下のあたりを通って夜道となった。山道は尽きて広い野原に出た。…賢さんは今夜は松の大木の下に寝るとしようかとしたが、松の大木は暗くて見つからなかったが三、四反もある耕地発見しました。賢さんはしめたと一言いうて…畑地通いの小道を辿って谷に下りた。しかし、流れがあるだけで人家が見当たらない。土橋の上でねる事にきめていたら川下から一老人が現れた。「オメサンダチ、ナニシテイル、こんな処で寝たら狼にやられるぞ、オラホノウチサオデンセ」と親切な言葉に導かれて、二人は川上に上がっていったら、大きな一軒の家があった。特有の曲り家作りで、右棟は母屋、左棟の厩舎境の土間は家事郎党の寝場所で乾草が寝床であった。母屋には炉があり、横座にさっきの老人がドッカと座り何しにこんな山中まで来たかを聞かれた。(中略)翌朝、昨夜の川に出て顔を洗い身を清めた。此の流れは丹藤川の上流だと賢さんから教わった。(以下省略)


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