■ 〈古文書を旅する〉199 工藤利悦 内丸屋敷故実(その三)
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【20】岩手医科大学付属病院地内
「盛岡砂子」に南部氏(八戸弥六郎家)邸西隣とあり、「同書」附図、「慶応図」共に漆戸瀧口と見える。「増補盛岡砂子」は「今、横沢勇作の所有に帰し、梨華菓(ママ)を作り大いに地方物産を奨励しつつあるなり」と伝えるが、明治三十三年の記録では、南部左京・漆戸瀧口屋敷残らず岩手病院となるとす。南部左京の屋敷は「盛岡砂子」附図には新御屋敷、「慶応図」には伯耆殿(藩主利剛の二弟)屋敷とあり、現医大付属病院西棟所在地
【21】(イ)岩手県庁・県会議事堂
「盛岡砂子」は「楢山氏邸、大腰掛の北」とあり、「同書」附図は楢山帯刀(佐渡の父)、「慶応図」は楢山佐渡屋敷、「増補盛岡砂子」は「この邸は県会議事堂となれり」とす。ちなみに「盛岡砂子」はこの屋敷に西隣する広小路御屋敷について、文政十一年に楢山主膳(小楢山)屋敷を御用地として召し上げて後の利剛屋敷としたこと、生母於烈様(利済側室・楢山氏)が同居したと伝え、「同書」附図には広小路御殿、「慶応図」は出羽殿(藩主利剛の三弟)屋敷と見える。「増補盛岡砂子」には「廃藩置県来岩手県庁に充られたり」と散見する。現在はこの地に県会議事堂があり、楢山佐渡屋敷跡は岩手県庁。
(ロ)【19】の内、中屋敷のことか、未詳
(ハ)日本基督教団内丸教会・内丸学園盛岡幼稚園敷地
「盛岡砂子」は「下田氏邸 本御蔵南隣、寛永二年に屋敷替えを命ぜられて移る」とし、「同書」附図は下田将監屋敷、「慶応図」は南部主水屋敷とある。明治三十三年の記録には「内堀若狭屋敷(【10】参照)南部主水屋敷残らず基督教会場」と伝える。
(ニ)医大附属循環器医療センター敷地
「盛岡砂子」は「南部氏邸(旧南部主計なり)下田氏西向かい」とし、「同書」附図、は奥瀬内蔵屋敷、「慶応図」は南部廉次郎屋敷とある。
(ホ)未詳
【22】岩手医科大学付属病院地内
「盛岡砂子」は「南部氏邸(旧八戸弥六郎なり)追手御門内西側、正保図(原本には寛永図)には三軒屋敷にて追手御門土手際には田代治兵衛、その南に八戸氏、その西隣下田覚左衛門居す、その頃にや、田代氏の邸、八戸氏に合併」とし、次いで一書に云々と本文を引用し、正徳三年八戸氏買い受けと伝える。
「増補盛岡砂子」には「南部弥六郎の邸は今芝居小屋(SY内丸座前身)・料理店・写真館、長屋等立ち並び町家となる」と伝える。付属病院はこれに西隣する漆戸屋敷・新屋敷を併合。新屋敷は「盛岡砂子」附図には広小路御殿、「慶応図」は出羽殿(藩主利剛の三弟)屋敷と見え、現医大付属病院西棟所在地、【20】を参照。
【23】テレビ岩手・JTB東北盛岡支店敷地
「盛岡砂子」は桜庭邸(【19】参照)毛馬内氏北向かい、中ノ橋御門内北側とし、「同書」附図、「慶応図」ともに、桜庭十郎左衛門(小桜庭)屋敷とす。毛馬内伊織屋敷と共に、中ノ橋門内枡形を形成する一郭である。「増補盛岡砂子」は「県令嶋惟精氏この邸に新宅を築き、のち茨木県に転任するにあたり売宅す、秀清閣なる寄席これなり」と散見する。
【24】(へ)(チ)県会議事堂、【21】(イ)を参照
(ト)盛岡地方裁判所の内、【1】を参照
「増補盛岡砂子」は「南部土佐屋敷大半と下田勘解由屋敷残らずをもって裁判所となる」と伝える。石割桜は本来南部土佐邸内にあった樹木。
(リ)医大臨時駐車場(前盛岡赤十字高等看護専門学校)所在地
「盛岡砂子」附図には楢山河内、「慶応図」下田将監屋敷として見える。【18】を参照、毛馬内典膳屋敷は「慶応図」では南部美作守(七戸藩主)邸としている。
■ 維新後の内丸
明治十年改め士族明細帳によれば、官庁街となった内丸に居住する士族は十一人。鶯沢武政(九番屋敷)、坂本永真(十一番屋敷)、南部居路(十三番屋敷)、野田親義(十四番屋敷)、新渡戸常文(十五番屋敷)、上領養諠(十七番屋敷)、太田代恒徳(十八番屋敷)、内堀守貴(二十一番屋敷)、堀内政弼(二十七番屋敷)、大坪永次(二十九番屋敷)、大光寺八十五(番地不明)の諸家。この内、旧住民である家は、南部家(慶応図に新屋敷【20】で見える)と内堀家(解説【10】・【21】(ハ)参照)のみであった。
■ 差し換え
【5】前県立図書館に南接する芝生の一郭 「盛岡砂子」によれば、桜庭肥後屋敷(岩手日報社所在地)に南接して三屋敷があった。南に向かって毛馬内九左衛門屋敷(前県立図書館敷地付近)、中屋敷、隅屋敷。なお毛馬内・中屋敷に東接して毛馬内伊織屋敷(市営地下駐車場の上付近)があり、中の橋からの通路を遮るように枡形の役目をになっている。「慶応図」は両毛馬内氏屋敷および中屋敷は、何れも三戸式部屋敷に包括されたことを伝えている。明治三十三年の記録によれば、隅御殿から桜庭屋敷までを勧業場機場瓦場、三戸駿河屋敷を同陳列場とある。
■ 内丸屋敷故実 その三
【20】○ 石間漆戸主膳屋敷は、昔は鍛冶小屋、これの前足沢兵部・大湯五兵衛、その後大工小屋になる、宝永年中(一七〇四〜一一)光源院様(行信息女、小出玄番頭重興室)御屋敷になり、のち松岡角右衛門当分差し置かせられ、この節角右衛門御側頭を仰せ付けられ、御老中見習を勤め、身帯新田弐百石加増、七百三十四石、また本宅を石間へ引き移し、以後漆戸主膳拝領(享保年中引移)す
【21】寛延二年(一七四九年)七月屋敷替え、葛巻覚右衛門宅は楢山五左衛門へ(イ)、谷河左内宅は桜庭十郎右衛門へ(ロ)、南彦八郎宅は下田覚左衛門へ(ハ)、十郎右衛門宅は南彦八郎へ(ニ)、覚左衛門宅は沼宮内治部左衛門へ(ホ)、右之通これ下され、元来谷河屋敷は明石甚九郎旧宅に候処、断絶に付谷河へ下され、然る所寛延二年四月八日谷河左内自殺、身帯家屋敷共に上り断絶す、これによって屋敷替なり
【22】○ 下田覚左衛門、昔は内丸石間に居り候処、正徳年中(一七一一〜一六)八戸弥六郎へ相払い、三戸丁へ引き移る、三戸丁は田丸郷右衛門宅なり
篤焉云う、此家屋敷正徳三年(一七一三年)常穏院様へ払い、のち八戸弾正内になると元文年間(一七三六〜四一)の図に見えたり、常穏院様は重信公御女にて八戸弥六郎義倫へ御縁組
【23】○ 当時、桜庭弾正屋鋪は江刺市左衛門住居し天明元年(一七八一年)丑九月自殺、千五百石御取上げ、上り屋鋪となる、のち桜庭拝領なり
【24】○ 下田河内元屋鋪(へ)は石間にて当時漆戸左仲の向いなり(この下田元屋鋪は御新丸前御道具部屋の後にて、表門は漆戸左仲屋敷の向いにあり、この屋敷、昔は美濃部甚右衛門・藤枝宮内・楢山要人・南彦八郎居住す、それより下田居すなり)、しかる所、桂和泉天明二年(一七八二年)寅四月、道中福島にて自殺、五百石御取上げ、上り屋鋪となる、その後下田河内は桂の上り屋鋪(ト)を拝領引き移り(今の下田屋敷、北家の隣、則ちこれなり)、こち下田河内の元屋敷は大破故に取り壊す、空き地に相なり、北家と小楢山右両家へ御割り分け御預けなされ候節、右家の表門、東家にて願い上げ、直々紙丁袋丁へ引き候て建て候由、東家の表門と相なり、これによって今紙丁東家にこれあり、表門は内丸より引き候大門なり、これ迄東家の門は扉門なり
篤焉云う、文政年末に楢山屋敷(チ)を取り壊ち、広小路に御屋敷新規に御造営の節、北家へ御預けなし置かせられ候地面共に御取り上げ、広小路御屋敷地面に御加えなされ、この節楢山へは漆戸左司馬屋敷(リ)を下され、家大破に付、新規建替え居住す、毛馬内典膳(ヌ)隣屋敷なり |
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