■ 〈紫波町と奥州藤原氏の史跡、伝承をたどる〉1 樋爪氏とは何者か
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赤沢地区の白山神社境内にある経清の母の供養碑と言われる石碑 |
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奥州藤原氏唯一の地方政庁と言われる樋爪舘(ひづめだて)が紫波町にあった。これと五郎沼を筆頭とし、同町内には奥州藤原氏にかかわる伝承や史跡が各地に残る。奥州平泉が世界文化遺産に登録されるのを見据えて町では今年、民間主導で発足した平泉連携協議会が本格的な活動を開始する。紫波町に残る伝承地や史跡を紹介する。1回目は樋爪舘の主(あるじ)だった樋爪氏。(荒川聡記者)
古文書をみると樋爪氏は、比爪、火爪とも書かれる。この連載では系図で使われている樋爪を使うことにする。
「吾妻鏡」の源頼朝の奥州侵略の場面に樋爪氏の記載がある。藤原氏が滅んでから150年後に生まれた南北朝時代の公家洞院公定(とういん・きんさだ、1340〜1399)がまとめた「新編纂圖本朝尊卑分脈系譜雜類要集」(「尊卑分脈」)に、藤原氏の一族であることが記載されている。
別に「奥州御舘系図」(塙保己一‖1746〜1822‖によって編集した「続群書類従」巻158にある)には前九年合戦で殺された藤原経清以前から記載があるが、一族とされる樋爪氏などの記載がない。
「吾妻鏡」と「尊卑分脈」、遺跡発掘による物証の3点を樋爪氏を検証する上での基本資料とし、伝承を加えて考えてみた。
奥州藤原氏は、藤原経清(宮城県の南東の亘理‖わたり‖郡を拠点とし、亘理権大夫を名乗っている。前九年の合戦‖1051〜62‖で敗れ62年に殺された)を祖とし、その子の清衡が後三年の合戦(1083〜87)で清原氏の奥六郡(胆沢、江刺、和賀、稗貫、志波、岩手)を引き継ぎ、2代基衡、3代秀衡、4代泰衡の藤原4代へと続いていく。
樋爪氏の祖は清衡の4男清綱であると「尊卑分脈」では記されている。清綱は亘理権十郎を名乗り、経清と同じ亘理郡を拠点としていた。
東北各地にある奥州藤原氏に関連すると考えられる遺跡の発掘で、藤原氏は奥州の海や川の主要な湊を押さえ、奥州から産出された潤沢な金を使って国内外から陶磁器を輸入していたと考えられており、東北各地の平泉関連遺跡から12世紀に制作された陶磁器が見つかっているという。
亘理郡は平泉文化圏の中に位置、初代清綱は藤原氏の足場となった亘理郡を治めた。その長男の俊衡が志波郡を治め、姓を樋爪姓に変えたと言われている。樋爪氏が藤原氏の一族であるという確実な物証を得るのは難しいが、亘理郡、志波郡を任せていたことだけでも藤原氏が非常に信頼していたことが分かる。
樋爪氏は現在の紫波町南日詰箱清水地内に樋爪舘を12世紀に造営した。当時としては非常に大規模な土木工事によって五郎沼を構築。伝承によると、ここを拠点として郡内の産金の管理をしていたと言われている。
支配していた志波郡の範囲は紫波町、矢巾町、盛岡市都南地区までではなく、厨川舘にもかかわっていたとみられており、盛岡市内の大半が志波郡で樋爪氏の支配下にあったと考えられる。
「尊卑分脈」によると樋爪俊衡には3人の息子がいたと書かれている。俊衡が樋爪舘にいて、郡内の要所には3人の息子たちを配置していたのかもしれない。
紫波町内に平泉関連の伝承が数多く残されているのは、樋爪氏の本拠地が置かれていたことが関係していると思われる。赤沢地区には清衡の父経清と深いかかわりがあったとする伝説があり、地区中心部にある白山神社の参道には経清の母の供養碑がある。供養碑は後年に建てられたようだが、藤原氏と樋爪氏の関係の深さを印象付ける伝説である。 |
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