2008年 1月 5日 (土) 

       

■ 〈賢治の置土産〜七つ森から溶岩流まで〉37 岡澤敏男 秋田街道「青春の彷徨」

 ■秋田街道「青春の彷徨」

  賢治は盛岡の西に連なる南昌山、毒ケ森、箱ケ森へ中学生のころより水晶やメノウ採集に訪れているが、とくに箱ケ森(866b)はお気に入りだったらしく大正6年4月〜5月に短歌4首をのこしている。山頂は展望が良く、当時はまだなかったが御所湖の北にぼこぼことした七つ森が手に取るように望まれたのでしょう。次はその折の歌とみられます。
 
  七つ森
  白雲あびて
  巫山戯(ふざけ)たる
  けものの皮のごとくひろ
  がる
 
  坊主頭の七つ森を「けものの皮をかぶったように」と歌っています。「ふざけたる」とは七つ森への裏返した同情で、そのようにした加害者への痛憤に通じています。

  歌稿Aにはこの歌はなく、歌稿Bに「箱が森/あまりにしづむながこゝろ/いまだに海にのぞめるごとく」のつぎの位置に挿入されたものです。箱が森は新第三紀中新世という、おおむかしの海底の堆積物と海底火山から生れたものとみられており、賢治は「もの思いにしずむ」箱が森を「いまだに海にのぞ(臨)んでいるかのようだ」と心情をくんだのでしょう。

  そうした自然交感をうけて「おきな草/とりて示せど七つ森/雲のこなたに/むづかしき面」が歌稿Bにつづき、七つ森の「むづかしい顔」をする心情をとらえています。

  その気難しさの要因を「ハゲ山」と気づき、こんどは「青鉛筆」を投げやって七つ森の機嫌をとりもつのです。「七つ森/青鉛筆を投げやれば/にはかに/機嫌直してわらへり」。

  賢治はこの歌を詠む以前に入会地だった七つ森の山林が維新後に国有となり、その払い下げ資金捻出のためにやむなく山林を伐採してハゲ山にした事実を知ったのでしょう。こうした背景の下に、短編「秋田街道」に挿入される「みんなは七つ森の機嫌の悪い暁の脚まで来た」の一節はつながってくるのです。

  この短編は、大正6年7月7日深夜から8日の黎明(れいめい)にかけて、アザリア会グループの四人衆が盛岡市内から秋田街道をたどって雫石春木場の葛根田川原まで歩いた青春記録で、2年後の大正9年に執筆したらしいが生前未発表の文章です。

  小沢俊郎は若い学生等の自由で気概にみちたこの夜行を「青春の彷徨」とよびました。この夜行に同行した河村義行(緑石)は数句の俳句を『アザリア』第二輯(号)に発表し、また遺稿句集『大山』に「宮沢氏其他と十二時出発、山を歩みたり、春木場へ至る」として2句を収録している。

  小菅健吉は「二三四」の筆名で「不良少年夜道して歌よむ」の見出しにて2首を載せており、賢治もまたこの夜行の短歌4首を『アザリア』第二輯に発表しています。

  ところが保阪嘉内は『我は独り』ノートに「馬鹿旅行日記」と記し「春木場まで(盛岡より)/大正六年七月八日朝零時十五分より、/仝后二時十五分までの間/同行者三人/小菅健吉 宮沢賢治 河村義行」と記録し、別の頁に60首もの短歌を詠んでいるにもかかわらず『アザリア』第二輯にはどういうわけか一首も発表されなかったのです。


 保阪嘉内の「馬鹿旅行日記」60首(うち12首抜粋)
 
若者のおろこさも/いまは高じ果て/この夜の道を歩まんと言ふ

合歡の葉の/パッと合ふごとし/友の心/まったく旅を共に思へり

諸葛橋で/ちょいと休めば/雨が降る/川に落ちたる一滴の音

月見草は一列に/黙ってならびたるか/われより見れば/唐草模様

藍いろの七つ森山/草の葉が青いと/言うが/少し/明らか

東の方の林のはじが/白く見ゆ、その上の/雲もすこし明るく

明けてゆくひがしの/林の青やかさ/浮かべる雲のにぶ色の白

雫石は/田舎の町なれば/あけがたに/通るわれらに犬が吠え渡る

あけがたの/河原に虹が/遠く見ゆ、休まんとして/石にすわれば

われらが睡る/川原のうえの/虹の輪は大きな口をあいて笑へり

春木場の途に/落としたるステッキを/ひろはんとせしが/捨つる菩薩心

川原に睡った人/を起さんと/ぼちゃんと石を/水中になぐ

本ページ掲載内容の無断転載を禁じます
ホームページに関するお問い合わせ、取材に関する情報は
E-Mail:hensyuu@morioka-times.com
盛岡タイムス宛てにお願いします