2008年 1月 11日 (金) 

       

■  〈古文書を旅する〉最終回 工藤利悦 1カ年作料は塗師がトップで658両なり

 【解説】

  南部家御抱え職人について初期の状況はほとんど不明であるが、ここに見える記録は重直代に任用された人たちである。

  かろうじて「御領分通分諸上納金銭雑記」によって、天和二年(一六八二年)の状況が捕足され、知行地をあてがわれた職人十八人(総高三百八十一石)、扶持をあてがわれた職人四十六人(総計三百六十七駄、高にして七百三十四石)。

  詳細は不明であるが職種別一カ年作料(支出総額三千二百七十七両)の項があり、塗師(六百五十八両)、鍛冶(鉄炭代、手伝い共、五百四十一両)、左官(手伝い、土代共、百七十両)、屋根屋(百十六両)、木挽(百五両)、船大工(八十両)、桶屋(四十両)、檜物屋(二十五両)、畳屋(十四両)、瓦師(十一両)、鉄炮鍛冶(六両一歩)とみえる。

  御抱職人を介して南部家の需要動向が垣間見えて面白い。ちなみに、擬(あてがい)・作料のほか、諸職人扶持として二千駄(一駄現米七斗二升)が支給されていたともみえる(同書)。

  その後、重信・行信・利幹・利視の時代を通じて、武具・調度品の整備に力を注ぎ、諸職人の召し抱えも盛んとなる。享保年間の支配帳によれば、百六人と増加。

  職種別には大工十一人、鍛冶六人、木地師・畳屋各四人、瓦屋・左官・屋根屋各一人など建築部門で三十二人、仕立屋十人(内二人、縫物師)、紙漉き六人のほか、桶屋・ろうそく師・紺屋・味噌煮(各一人)など生活部門で二十四人、刀鍛冶四人、鉄炮師等三人、具足師三人・金具屋四人・研師三人、鍔鍛冶一人など武具製作部門で二十四人、檜物師二人、彫物師二人、蒔絵師一人、沈金彫師一人など、調度品製作部門が十三人、その他十三人(絵師九人・面打ち一人、釜屋一人、鋳物師二人、煙硝(火薬の材料)煮・船大工各一人など)である。

  特に絵師九人は幕府から国絵図作成の下命があり、そのことに伴う増加であったことが知られている。

  その間、享保十四年に利視御召鎧「金小札緋威御具足」が新調され、具足師岩井甚六ほか、金具師九蔵(子孫高間氏を名乗る)・同十右衛門・同半兵衛・同弥三郎・彫物師平七・飾師与市・同長蔵・同治助・蒔絵師勘七・鍛冶久兵衛等が褒賞されている(『雑書』)。

  「諸御職人被召出井御賞書上」(村田家文書)によれば、「雉子尾御太刀」は寛文年中(一六六一〜七三)に先の九蔵の初代九左衛門と鞘師林藤右衛門が用命を請けて延宝三年(一六七五年)に完成といい、その功によりそれぞれ八人扶持で召し抱えられという。

  また「鷹頭御陳太刀」と「鳳凰御陳太刀」についても、既述の九蔵と鞘師山口又兵衛によって享保十五年(一七三〇年)二月製作と伝える。

   ■ 釜師小泉仁左衛門家

  小泉家の記録では延宝五年(一六六七年)に江戸表で召し抱えられたと伝えるが、本文は大分異なる。なお、最近県博の時田・齋藤氏により初代から三代までの間に一代加える第三説を発表している。納得性があり早晩定説となるであろう。文化四年(一八〇七年)に苗字帯刀御免。近年およそ三百五十年の由緒あるお店を閉じられたのが惜しまれてならない。

   ■ 鋳物師鈴木忠七家

  「百石の御證文は所持した云々」を傍証する記録は寡聞にして管見にない。文化九年(一八一二年)十一月苗字帯刀御免。生姜町にお店を構える老舗「主善堂」の先祖につながる伝である。

   ■ 屋根葺棟梁鳥山忠助家

  葛屋根と言えば茅葺き屋根のイメージだが、「実は柿(こけら)葺の屋根の事」とあるのは面白い。

   ■ 鉄鉋師辻村左伝治家

  「『参考諸家系図』には、「辻村五十右衛門光奥(茂林とも)、本国陸奥会津(一本、近江)の人、貞享四年(一六八七年)御鉄炮師に召し抱えられ十人扶持を賜うて御給人となる」と見え、正徳中(一七一一〜一六)に禄を収められたが、享保十四年(一七二九年)赦に遇ってさらに召し出された。後年の鉄鉋師辻村左伝治家は初代五十右衛門の孫市之進の弟か、七右衛門の名で召し抱えられたと伝える。

   ■ 打物鍛冶新藤治兵衛

  京信国の流れを引く筑前新藤派の刀工。打物鍛治として幕府に書上げられた家柄。初代国義作の脇差しは県指定文化財。

   ■ 鉄鉋金具師国友宗家

  「鉄炮の里」近江国志和郡国友庄の産という。子孫国友宗五郎は藩命を以て箱館にてロシヤ人から銃砲の製作、蒸気機関に関する技術を収得したと伝える。

   ■ 大工棟梁美松儀兵衛

  諸職人の中で地方百石を知行したのは当家だけ。よって特別の処遇を請けていたことが「雑書」に見える。後年利剛が美濃守を名乗ったときに美の字を憚り、苗字を三枝に改めている。

   ■ 大工棟梁手塚家

  本文では手塚文右衛門、万治三年(一六六〇年)と伝えるが、『参考諸家系図』は木村藤兵衛で召し抱えられ、三代勘之丞家勝は寛文二年(一六六二年)家督の時に禄を収められ、さらに刀差(一本、大工)で召し出された。この時手塚氏に改めた。その子三太夫頼勝の時、享保二年(一七一七年)に勤功を以て組付御免となり士斑籍に列せられたと伝える。

  明治元年(一八七〇年)改の支配帳にみる技職人の総勢は百三人。享保以降、個別の家に出入りがあるほか、業態の細分化によって鐙鍛冶・大小拵師・鎗師・弓師・足袋師など、また時代の推移によって時計師・印判師・瀬戸焼師など新業種も加わり職種は多彩である。しかし、総じて見れば職人衆団の構造は享保年間には確立されていたことが知られる。

 ■ 諸職人の任用

  一、釜屋五郎七召し抱えらるること

  釜屋五郎七生国京都なり。重直公御代万治二年(一六五九年)十駄八人扶持(ぶち)にて江戸にて召し抱られ、盛岡へ御下しなされ、苗字小泉、実名清行、今の釜屋仁左衛門家なり

  一、鋳物師鈴木縫殿(ぬい)召し抱えらるること

  鈴木縫殿は本国甲州なり。重直公御代志和郡土橋村にて百石これ下され、その後三人扶持に仰せ付けられ、この子孫当時鋳物師鈴木忠兵衛と云う。前々より三人扶持下され来るなり。百石の御證文は元禄年中居宅焼失の節焼失なり。

  一、屋根葺召し抱えらるること

  屋根葺棟梁北山葛右衛門、生国は山州(山城国)北山なり、重直公御代召し抱えられ、雫石やひつ村に百石これ下され、のち三駄二人扶持を下され、鳥山葛右衛門と改め、これによってその頃柿(こけら)葺を葛(くず)葺と唱う、のちに誤りて萱葺(かやぶき)を今に至るまで葛葺と云う、また葛屋根とも云うて誤れり

  一、鉄炮師召し抱えらるること

  鉄炮師辻村五十右衛門光奥、本国は近江、橘姓なり、十人扶持にて召し出され、のち御給人になる、故ありて今二人扶持を下さる

  一、刀鍛冶新藤信国召し抱えらるること

  新藤源信国は本国筑前なり 元禄十年(一六九七年)死す

  重直公御代召抱えられ、現米二十駄十人扶持下され、その子国義(元禄十一年死、剣山刃公信士)

   諸士系図 本国筑前の刀鍛冶 源義国、あるいは信国とも、

   新藤次郎兵衛

   重信公御代江戸にて刀鍛冶に召し出だされ、現米二十駄十

   人扶持下され刀御免、

  元禄十一年卒

    信義 次郎兵衛 元禄十二年正月卒

    義国 次郎兵衛 明和九年(一七七二年)八月卒

  一、鉄炮金具師国友新蔵召抱えらるる事

  鉄炮金具師国友新蔵吉辰、本国は近江国、志和郡国友庄に出生、佐々木之流也と云う、重直公御代二十駄五人扶持にて召し抱えられ、後に現米十駄になる、兄は召々木権左衛門とて松平筑前侯家士に成り身帯五百石これ賜うと云う、

  一、大工棟梁美松長門、手塚文右衛門召し抱えらるること

  本国山城、大工棟梁美松儀兵衛、江戸にて重直公御代、二百五十石にて召し抱えらるる約束、盛岡に御下しなされ、初名長門と云う、後百石になし下され、(重直公御代美松長門、大工職に召し出だされ二百五十石の御約束にてまかり下し候処、百石下し置かせられ、大工棟梁仰せ付けられ寛文十年(一六七〇年)卒、光台寺に葬る)

    宗隆 美松長門

    宗次 儀兵衛

      延宝四年(一六七六年)盛岡御城三階御櫓建立の時     棟梁職

    宗久 儀兵衛

  一、重直公御代、万治三年(一六六〇年)大工棟梁手塚文右衛門七十五駄にて江戸にて御抱え、その後九駄二人扶持を下され、刀指棟梁になる、その孫三太夫、江戸御作事所帳付を一両年実躰に勤め候に付き、作事奉行一条久兵衛より申し立て、享保三年(一七一八年)御給人に成し下さる。

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