2008年 1月 12日 (土) 

       

■ 〈紫波町と奥州藤原氏の史跡、伝承をたどる〉6 夜泣き石の伝説とは

     
  五郎沼東側堤防に建てられている現在の夜泣き石  
 
五郎沼東側堤防に建てられている現在の夜泣き石
 
  五郎沼には、樋爪(ひづめ)五郎が泳いだ伝説のほかに、幾つもの伝説が残されている。この中の一つに夜泣き石がある。国道4号沿いの五郎沼北側から100bほど南進した土手上に石がある。

  地上に出ている部分だけでも2b以上の巨石だ。大部分が土中に埋まっているといい、深さ数bはあるという。

  伝説は五郎沼構築時にさかのぼる。同沼は洪水調節のための人工湖であったとされる説を前回紹介したが、自然の力に耐えきれず何度か決壊することがあったという。

  水神の怒りを鎮めるために人柱を立てることになり、付近に住む農家の娘が選ばれ、土手に生き埋めにされたという。娘が埋められた土手の上には巨大な石が供養碑として立てられた。

  これによって大雨で堤防が決壊することはなくなった。ところが不思議なことが起こり始めた。夜に石の近くを通ると、しくしくという悲しげな娘の泣き声が聞こえる。誰かいるのかと振り返っても誰もいない。こういうことが何度も起き、いつしか夜泣き石と呼ばれるようになった。娘の遺体はその後、大荘厳寺に移されて手厚く葬られたという。

  それから数百年後の大正末ころ、大規模な泥さらいが行われた際、夜泣き石の移設も合わせて行われた。古代ハスの保存活動をしている箱崎勝紀さん宅には当時の写真がある。

  雪が見えるから季節は冬であろう。手前に娘の魂を鎮めるために招いた神官、その隣はスーツにシルクハットを被った男性で村長であろうか。後ろにはんてんに鉢巻きといったいでたちの村民たちが後方までずらりと続いている。石は2重3重に包まれ、そりに乗せて運ばれたようだが、人の大きさからいかに大きいかが分かる。

  ■郷倉建設で経塚みつかる

  昭和9年(1934年)、国道4号に面する土手の南端に郷倉を建設することになった。そこは享保年間(1716〜36)に建てられた蛇塚と言われていた。郷倉が建てられるように整地したところ経塚が出てきた。そこからは経文を納めた素焼きと青銅の二重経筒、魔よけの短刀が出てきたという。

  当時赤石村助役をしていた畠山英一郎さんが、昭和20年代に書いた文書によるもの。五郎沼の底からでた出土品や経塚から出た品のうち素焼きの経筒、経文は赤石小学校に保管され、戦時中までは校内にあったというが現在は行方が分からなくなっている。

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