2008年 1月 12日 (土) 

       

■ 〈賢治の置土産〜七つ森から溶岩流まで〉38 岡澤敏男 賢治と「秋田街道」

 ■賢治と「秋田街道」

  アザリア会4人衆による深夜の秋田街道「青春の彷徨」を、保阪嘉内にとっては〈馬鹿旅行〉であり、また小菅健吉は〈不良少年の夜行〉と称したのは、いずれも「時世に背を向けた行為」といった意味での例えだったのでしょう。

  『アザリア』第1号の小集会後に「春木場まで歩こう」とだれかが言い出し「合歓の葉の/パッと合う」ように健吉、賢治、嘉内、義行の4人が賛同した客気こそ、当時の盛岡高農の若者たちの一本気な青春性だったのです。

  前年の冬休みに入ったころ、12月9日に夏目漱石(49)が死去し10日には大山巌(74)が没して国葬と決まった。ところが「大山元帥を国葬にしながら夏目漱石を国葬にしないことは文化軽視だ」という趣旨の訴えが本部前の掲示板に無許可で張られたのです。これは1、2年の有志学生によるものだったが、この1年生のなかに嘉内と義行も名を連ねていたようだったと三村一氏(河村義行と同級生)が証言しております。まさに「青春の彷徨(ほうこう)」と呼ぶべき逸事です。

  賢治が秋田街道の夜行について『アザリア』第2輯に「どういうわけか一首も発表しなかった」と前回書いたのは誤記で実際は「夜のそらにふとあらはれて」と題して次の4首を発表しており、この場で訂正しおわび申し上げます。
 
  夜のそらにふとあらはれ
  てさびしきは、床屋のみ
  せのだんだらの棒

  夜をこめて七つ森までき
  たりしに、はやあけぞら
  に草穂うかべり

  青びかる河べりにしてま
  どろめば夜っぴて鳴ける
  とりまたなけり

  河ぶちのまひるゆらげる
  いしがきの、まどろみに
  入りてまた鳥なけり
 
  しかし嘉内の60首に対して賢治の4首は意外に少ないという感じがします。おそらく賢治がこの夜行で感受した濃密な感興はとても短歌では表現しきれなかったのでしょう。

  そこで1920年(大正9年)9月執筆とみられる短篇「秋田街道」に、その夜行の道中において渦巻いた心象の起伏を情感ゆたかに描写してみせたのです。

  この「秋田街道」は、ほぼ同時期の執筆とみられる短篇「沼森」「柳沢」とは相違した文体として注目されます。1行〜5行の短い段落(切れ目)をもった17の文章で構成されており、しかも短い段落なので視覚的に投影した道中の心象風景が、散文詩風にスケッチされているのです。

  その当時の秋田街道は一等県道で盛岡市内鍛冶町が起点で中の橋〜日影門〜夕顔瀬橋〜雫石川の北側沿いに進み日向を経て仁沢瀬川を境に雫石通りに入るのです。尾入野〜生森〜黒沢川より右折して雫石城跡の西崖下から現雫石町市街地に入り、館町〜下町〜中町〜上町〜荒川と西に進み、葛根田川を渡って田んぼを横切り、春木場を経て山津田・赤渕〜橋場関所跡を通って国見峠より秋田県に入るわけです。

  しかし道路の補修はそれぞれの行政区が受け持つことになっており、当時の道路状況は盛岡〜仁沢瀬まではまずまずだが、雫石通りに入るとかなり悪かったものらしい。

  賢治も「道が悪いので野原を歩く。野原の中の黒い水潦に何べんもみんな踏み込んだ」と書いているのです。

 ■短篇「秋田街道」より抜粋

  (前略)

  向ふの方は小岩井農場だ。

  四つ角山にみんなべたべた一緒に座る。

  月見草が幻よりは少し明るくその辺一面浮んで咲いてゐる。マッチがパッとすられ莨の青いけむりがほのかにながれる。

  右手に山がまっくろにうかび出した。その山に何の鳥だか沢山とまって睡ってゐるらしい。
 
  並木は松になりみんなは何かを言い争ふ。そんならお前さんはこゝらでいきなり頭を撲りつけられて殺されてもいゝな。誰かが言ふ。それはいゝ。いゝと思ふ。睡さうに誰かが答へる。
 
  道が悪いので野原を歩く。野原の中の黒い水潦に何べんもみんな踏み込んだ。けれどもやがて月が頭の上に出て月見草の花がほのかな夢をたゞよはしフィーマスの土の水たまりにも象牙細工の紫がかった月がうつりどこかで小さな羽虫がふるふ。
 
  けれども今は崇高な月光のなかに何かよそよそしいものが漂ひはじめた。その成分こそはたしかによあけの白光らしい。(以下省略)

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