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「南部鍵屋 村井家襖の下張り文書」 |
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盛岡藩の商家、村井家の襖(ふすま)の下張りに使われていた文書をまとめた「南部鍵屋 村井家襖の下張り文書」が刊行された。青森県八戸市の「鍵屋」の末裔(まつえい)、村井源八さんが所蔵するもので、同市の歴史研究家三浦忠司さんに活字化を依頼。13枚の襖の裏から発見された約3千枚の文書が2年の歳月を経て刊行された。
同書では村井家の歴史や、村井家が明治政府を訴えた尾去沢(秋田県鹿角市)銅山事件などが詳しく解説されている。発見された古文書を白文で商業関係、尾去沢銅山取戻裁判関係など、5章立てに分類整理して収録している。
村井家は1717(享保2)年、紺屋町1丁目に鍵屋を構えた。キリ油とキリ油合羽(かっぱ)などを販売し、盛岡藩随一の商家として栄えた。幕末の1868(慶応4)年、鍵屋4代目村井京助は資金繰りに窮した藩に御礼金などを上納し、次第に尾去沢銅山の経営権が譲られた。
一方、1869(明治2)年、戊辰戦争で敗れ白石へ転封された盛岡藩は、明治政府に70万両の献金を条件に盛岡復帰を認められたが、その金策として鍵屋が巻き込まれた。滞った返済を明治政府は回収しようと、1872(明治5)年、尾去沢銅山の経営権を没収。だが、当時、大蔵大輔だった井上馨による私物化などが知られ、1874(明治7)年、大蔵省を相手に尾去沢銅山の取り戻し訴訟を起こした。結果、井上らは処罰されたが、実質敗訴が決まり鍵屋村井家は破たんした。
同書の中で尾去沢銅山に関する資料は25点。盛岡県宛免許願から屋敷の差押え書、嘆願書と、銅山経営に乗り出して裁判を起こすまでの経緯がつづられている。
返済の陳述を述べた中には「会計係リ川井清三ヨリ頼談ニ与カリ屡々(しばしば)辞退セント雖トモ強テ藩用之為可願トノ厳達ヲ蒙リ…」と、藩のためにと無理強いされた様子などが読み取ることができる。A5判、上下巻合わせ664ページ。定価5千円(税別)。 |