40年ほど昔のこと。私が高校から帰宅すると今度出た新聞だ、と言って義祖母が盛岡タイムスを手渡した。当時は両親が水沢に転勤中、新聞は取りやめていたのでありがたかった。
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日露租税条約の写し |
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水沢に行けば父(山田勲)は社宅近くの後藤新平旧宅へ私を連れ出し、後藤新平の何たるかを語った。それまで原敬記念館に父は長くかかわっていたので、今度は後藤新平かくらいの印象しかなかった。だがこの時、先祖大矢精助が鉄道揺籃(ようらん)期にも関係していたことを初めて知った。
時は過ぎ、まだ元気だった亡父から所蔵資料の手ほどきを受け、ようやく未解明の資料をつづることができるのは57歳の私にとって不思議なタイムス社とのご縁である…。
幕末の南部盛岡藩政は嘉永6年の三閉伊一揆によって藩主利剛(としひさ)公が、藩士のみならず領民すべてに率直な自己反省を表明し今でいうパブリックコメントのような意見具申も求めている。封建領主も市民の声に耳を傾ける時代が到来したのだ。
激動の時代、私の先祖らは各種奉行や祐筆(書記)などに取り立てられていた。現在残されている古文書類をみると、日露租税条約の写しなどもあって西洋の事情を知ることが出来たらしい。
そのためか、先祖大矢富弥は勘定奉行所で大島高任と同輩となり、海陸経営方として大迫貨幣鋳造所の視察記などを現代に残している。富弥の妻ヤエは異国事情に詳しい人物だった。子息大矢精助はやがて慶応年間から明治にかけて江戸詰め藩士となりさらに知識を得る。だが一揆と派閥抗争…なぜ奥羽諸藩は苦しむのか。青年藩士の脳裏には何かが走り始めていく。
(盛岡市上ノ橋町、会社役員) |