■ 〈胡堂の父からの手紙〉147 八重嶋勲 「学資困難ゆえ、耕次郎は家で実業に」
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■205半紙 明治39年10月31日付
宛 東京市本郷区第一高等学校寄宿舎朶
寮三、
発 岩手縣紫波郡彦部村大巻
前略其後久保庄作様子一向ニ承ハラス、如何ナル様子ニ候哉、次ニ旅行演習ノ状形詳細報知被致度候、当地ニハ別条無之、農作物初秋ノ頃ト気候一変シ天気續キニテ霜遅キ故稲作心配セシヨリハ後直リ致候、平年ノ七分作位ニ相見得候、
当月ヨリ学費ニ注意シ出来得ル限リ節険(倹)被致度、毎月多額ノ送金ニハ実ニ困難ニ候加之年末近キ故方々ノ借用返済ニ途ナク最早無事ニ経過スルコト容易ナラス旁ニ心配ニ候、
佐藤善太郎ハ此頃是迄入学ノ学校除名通知ニ相成徴兵猶豫事故止シタル届提出為致候、然レ共不日出京何学校ナリヘ入学シ又候猶豫願提出スルト話居候、M・Sハ当月上旬盛岡ニ宿泊中賭愽犯ニテ取押ヘラレ、ノミナラス官吏ニ抵抗セシ□ヲ以テ入獄セラレ目下取調中、実ニ残念ノコトナリ、正養寺ノ教全病気再発シテ吐血止ムザル由、大川源兵衛ハ大学入学到底財政ノ都合ニ依リ断念スル様子ニ候、又上達スルモノハ、豫テ承知セシ盛岡ノ佐々木ノ如キハ新橋ヨリ轉シ北海道ノ何ナルカ社長トナリテ月俸百五十円斗(計)ニテ轉任セシ由、盛田與助ノ如キ敢テ高等学校ニモ入学セサルニモ不拘青森大林区署員トナリ月俸三十円、赤石村ノ長谷川獣医トシテ月俸六十円、近頃平井六右エ門ノ養子トナリタル人ノ如キハ年廿六青森県才(裁)所判事ナル由、前者ト後者如斯間隔ノアルハ即チ平素ノ心掛ケト学生時代ノ勤怠ニアルナラン、学生時代ハ実ニ寸暇モ油断セラレサル次第ナリ、乍毎度我家ノ如キ学資困難ノ内ニ家内ノ絞(膏)血ヲ絞込カラクモ入学シ居ルモノ、大節険(倹)ヲ行(フ)ヘキハ勿論根限リ勉強可致候、
他日官当ニ選定セラルヽ人ハ学才優等敏腕ノモノナル由ニ候得ハ官当ニテ出生(世)スルモノハ第一期筆蹟ヲ克クシ第二キ博学ニシテ人望アルモノ、第三キ人格ノ高キ交際ニ巧ミナルモノナリト、今日ノ形勢ニテハ他日満二十八才(歳)ニシテ一年志願兵セサルベカラス、然ルトキハ大学半途ニシテ二ヶ年休学スルノ止ムナキニ至ルベシ、是ハ実ニ立身ノ妨ケナラン、今ヨリ其豫防ヲ研究スヘキコトヽ被思候、
豫而相談致置候筈、明年三月耕次郎モ高等学校卒業スルナラン、然ルトキハ以前ノ見込ハ師範学校ナリ又ハ工業ナリ蚕業ナリノ学校ヘ入学セシメ度想ヘ(ヒ)居候得共、学資ノ困難加之ニ農事手不足ノ為メ総テヲ想切リ家元ニ於テ実業従事セシムルヽ見込ナリ、他ニ成長ノ後□レニ少シク残念ニ被想ヘクトハ良心不満ナレ共不止得次第ニ候、老母モ別ニ変リタルコト無之、キクエノ如キ朝四時頃ヨリ起キ働キ居ルハ実ニ不憫ナリ、近所又賞譽シ他ニ得難キ若者ナリト称シ(ス)、彼レヲ慰スル為メ折々手紙ヲ以テ訪問可致置候、余ハ後便ト申残ス、早々
十月三十一日
【解説】「前略、その後屋号久保の石杜庄作の様子を一向に聞いていないが、どのような様子であるか。次に旅行演習の状況を詳しく知らせてほしい。こちらには別条のことはない。農作物は初秋の頃と気候が一変して天気続きで霜もまだであり、稲作は心配していたよりは後で持ち直し、平年の七分位の作のように見える。
当月より学費に注意しできるだけ節倹すように。毎月多額の送金には実に困難している。これに加え年末近いので方々からの借用返済の途がなく最早無事に経過することは容易ならず心配である。
佐藤善太郎はこの頃まで入っていた学校から除名通知がきて、徴兵猶予をやめる届けを提出させた。しかしながらいつの日か上京し何学校なりへ入学し、またぞろ猶予願を提出すると話していた。M・Sは当月上旬盛岡に宿泊中賭愽犯で取り押さえられ、のみならず官吏に抵抗した罪で入獄され目下取調中。実に残念なことである。
正養寺の石ヶ森教全は病気が再発して吐血が止まないとのこと。大川源兵衛は大学入学は到底財政の都合により断念するようすである。
また出世している者は、かねて承知した盛岡の佐々木のごときは、新橋から転居し、北海道の何か社長となって月俸150円ばかりで転任したとのこと。盛田與助のごときはあえて高等学校にも入学しなかったにもかかわらず青森大林区署員となって月俸30円、赤石村の長谷川は獣医として月俸60円、近頃平井六右エ門の養子となった人のごときは年26歳、青森県裁所判事ということ。
前者と後者、このような隔たりのあるのは即ち普段の心がけと学生時代の勤怠にあるだろう。学生時代は実に寸暇も油断されない次第である。毎度ながらわが家のごとき学資困難の内に家族の膏血(こうけつ)を絞りからくも学校に入れているものであるから大節倹を行うのはもちろんであり、根限りの勉強をするようにせよ。
いつの日か官吏に選らばれる人は学才優等敏腕の者ということであるので、官吏に出世する者は第一期は筆跡を良くし、第二期は博学であって人望のある者、第三期人格が高く交際に巧みなる者であるという。今日の様子では、他日満28歳で1年志願兵もしていない、しかるときは大学を半途にして2か年休学をすることに至るだろう。これは実に立身の妨げとなるだろう。今よりそのことを研究すべきであると思われる。
かねて相談していたことだが、明年3月、耕次郎も日詰高等小学校を卒業するだろう。しかるときは以前の見込みでは師範学校なり、または工業なり蚕業なりの学校に入学させたいと思っていたが、学資の困難、これに加えて農事の手が不足のためすべてを思い切り、家元で実業に従事させようと思っている。他の道に成長させてやれないのは少し残念に思われ、心に不満があるが、やむを得ない次第である。
老母も別に変わったこともない。キクエのごときは朝4時頃から起き働いているのは実に不憫(ふびん)である。近所ではそれを褒め、他に得難い若者であると称賛している。このキクエを慰めるためにも折々手紙を出すようにせよ。余は後便に申し残す、早々」という内容。
地元の若者たちの出世の状況を知らせ、それに比べ家族の膏血を絞っての多額の学費を投入しなければならない嘆きを述べているのは悲痛である。
そのため、弟耕次郎の進学をやめなければならない父の心中もあわれである。
また、長一の妻キクエの家事に対しての一生懸命な働きを不憫に思って長一にせめて手紙で慰めてほしいと頼んでいるのである。
(岩手県歌人クラブ副会長兼事務局長)
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