2008年 2月 2日 (土) 

       

■ 〈賢治の置土産〜七つ森から溶岩流まで〉41 岡澤敏男 賢治と同タイムの青春夜行

 ■賢治と同タイムの「青春夜行」

  江戸時代の南部城下からの主要道里程一覧表をみると「花巻へ九里一〇町」、「雫石へ四里八町六間」とあるから、雫石は花巻のほぼ半分の距離となっており、現在の花巻へ10里、雫石へ5里という道程と一致するのです。

  つまり盛岡〜花巻間は盛岡と春木場を往復する距離とひとつです。中学時代の賢治は、休暇などには寄宿舎から花巻の実家まで徒歩で帰ったことがよくあったという。盛岡劇場へ芝居を観に来て帰りの汽車賃が足りず夜道を花巻まで歩いたという逸話もあるのです。

  賢治の健脚からすれば春木場へは5時間もかからなかったはずだが、4人旅でもあり幾分アルコールの入っていた仲間もあったのでしょう。

  短篇「秋田街道」によれば、当時の悪路の影響によるものか6時間近くもかかっているようにみえます。道路が立派に整備された現在の「秋田街道」の「青春夜行」でも、この6時間の歩行時間は踏襲されているのです。

  初めの「青春夜行」プランでは夕顔瀬橋から春木場までの距離18・9キロ(約5里)を4キロ(1里)1時間とみて歩行時間5時間と試算し、午前0時15分の出発で午前5時15分ころ春木場に到着すると予定しました。

  しかし、集団で実際に歩いてみると約30分ほどの誤差が生じて到着予定を5時50分ころと修正したのです。この歩行時間が賢治たちの「青春彷徨」とほぼ同タイムであったことは、賢治と一緒に歩いているようでうれしくなりました。

  短篇「秋田街道」は17の短い文章の段落で構成されたものです。各段落の心象スケッチには秋田街道の現在位置が読みとれます。「青春夜行」の体験と大正5年の地形図を重ねながら、各段落(@〜P)の現場を推理していきました。そして、この短篇の書き出しについて新田町から三ツ家付近あたりの情景と推定されました。

  @どれもみんな肥料や薪炭をやりとりするさびしい家だ。街道のところどころにちらばって黒い小さいさびしい家だ。

   おれはかなしく来た方をふりかへる。盛岡の電燈は微かにゆらいでねむさうにならび只公園のア
  ーク燈だけが高い処でそらぞらしい気焔の波を上 げてゐる。

  「盛岡の電燈」や「公園のアーク燈」をこの路上からふりかえって見たのです。嘉内も「しっとりと濡れた/街路に向ふ家/たいがい/木戸を閉めてあるかな」とうたう。三ツ家を過ぎ中屋敷のあたりから雫石川べりをみた嘉内が「沈殿の/黒雲のごとし/雫石の橋場が/水に流された処」とうたっている。

  ここにある「雫石の橋場」とは、大正5年の地形図に「沢田渡」とある木橋です。太田橋もなかったころの「沢田渡」は本宮・太田方面と盛岡とを結ぶ重要な「渡し」だったのでしょう。

  ところが大正6年7月4日来の豪雨で、雫石川が増水し河川敷に架かる木橋の沢田渡が流されてしまったらしいのです。しっかりした沢田橋となったのは大正10年以降のこと。その沢田橋の200メートルほど上流にコンクリート造りとして建造されたのが太田橋でした。昭和10年のことです。

  中屋敷からしばらくして諸葛橋にさしかかり、そこから杉原を抜け荒川の小橋(宗任橋)を渡りました。それがBの段落で「道が小さな橋にかゝる。蛍がプイと飛んで行く」という場面です。

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