大正月や小正月が終わると、しばし静かな日々が続く。人々は厳寒に閉ざされながらじっと春を待つ。やがて2月になり節分を迎えると再び華やいだ空気が漂い始める。
節分の朝、大工の棟梁(りょう)だった父が、住み込みの若い衆を連れて建築現場に出かけると、家には祖母、母、叔母たちの女だけが残る。その人たちが台所に集まり、祖母の指図に従ってかいがいしく節分の支度を始めるからなのだ。母は割烹(かっぽう)着姿に姉さんかぶりをして、豆まき用の大豆を平盆に入れ、左右に傾けながら虫食いなどをより分けている。
「お前も早く帰って手伝っておくれ」
という声を背にわたしは小学校に向かった。低学年のころだったので、家の様子が気がかりで、少しも落ち着かず何度も注意されたものだった。放課後になると一目散に足首までも雪の積もった校庭を横切って家に帰った。
玄関に着くと奥の台所から女たちの笑い声やら、からころと大豆を炒(い)る音、何やら煮炊きしている香ばしいにおいなどが入り交じってふんわりと流れてきて、冷え切った全身を包み込んで一気に和ませてくれた。
わたしはすぐ下の妹と弟の遊び相手をしながら、皆の様子を眺めていた。当時住み込みの若い衆たちを含めて20人ほどの大家族だったわが家では、ことあるごとに、台所は大騒動だった。
それでも夜の帳(とばり)が落ち着き始めるころには、準備万端整えて父たちの帰りを待つのみとなる。
玄関先が、にわかに騒がしくなり、仕事帰りの父たちが、降りしきる雪を頭からかぶり、まるで雪像のようになったお互いの姿を笑い合いながら、箒(ほうき)でなで下ろしている。
出迎えに出た祖母は孫たちのような若い衆たちに
「寒かったべぇ、さあさあ、一風呂浴びてぬくだまれ(温まりなさい)」
とねぎらいの言葉をかける。
間もなくおそろいの印半纏(はんてん)をまとった父と若い衆たちが、神棚の前に集まり、二間幅の棚に飾られた神社のお札の前に、炒り豆をこんもりと入れた枡(ます)をそれぞれに備え、灯明をつける。夕闇の中にぼーっと灯(ともしび)が燃え、真昼の部屋とは一味違った雰囲気が醸し出される。家門繁栄、子孫長久、災障消除、諸縁吉祥ならんことを願い、皆でかしわ手を打ち礼拝する。
その後父は神棚の枡を降ろし鬼門に向かって立つ。大声で
「福は内、鬼は外。鬼の面玉ぶっつぶせ」
といいながら開け放した窓に向かって勢いよく豆をまく。若い男衆たちもその後に続いて四方八方にまいていく。それはとても華やかで荘厳な風景であった。
その日のために襖(ふすま)を取り外して広間にした座敷には、全員分のお膳が並び、女たちが朝から作った熱々料理が用意され、年の数ほどの豆をいただきながら、はしを運ぶ皆の顔には、こぼれるような笑みが浮かび、幸せに満ちていた。
その人々は今はもう誰もいない。あの屈託のない笑顔も、楽しそうな笑い声も皆遠い日の思い出の彼方に遠ざかってしまった。わたしもいつしか75歳の老婆になった。
でも、古来より民俗行事として伝承されてきた節分は毎年やってくる。いつのころからか節分の豆は落花生に変わり、スーパーなどの売り場には、落花生の袋詰めに鬼の面がついた商品が並んでいる。人々は当然のようにそれを買い求めていく。
終戦間もなくのころ、末の弟が幼稚園の豆まきに使った落花生を一握りもらってきたことがあった。明治生まれの父親は、晩酌の一杯をやりながら
「べらぼうめ、こんなもので鬼が逃げるか」
と言って弟を困らせていた。
思えばあのころから使われるようになったのではないだろうか。大豆に比べると、炒める手間もいらず、まいた後にも集めやすく衛生的な面が受け入れられた要因かもしれない。
今年も、千葉県佐倉市に住む弟嫁から節分用にと特産物の落花生が贈られてきた。男手のないわが家では、この老婆が豆まきをすることになるのだが、果たして鬼どもは逃げてくれるだろうか。
もしかしたら、どこかの物陰で
「ちゃんちゃら、おかしいよ」
と言って、あかんべぇでもしているような気がしてならないのである。
(矢巾町又兵エ新田)
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