■ 〈賢治の置土産〜七つ森から溶岩流まで〉42 岡澤敏男 杉の木の仁木弾正
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■杉の木の仁木弾正
嘉内の歌をみると諸葛橋で小休止したらしい。このとき賢治は暗い夜空に珍しい映像を幻視したらしい。
A私はふと空いっぱいの
灰色はがねに大きな床屋
のだんだら棒、あのオラ
ンダ伝来の葱の蕾の形を
した店飾りを見る。
この現象を『アザリア』第二号(7月18日発行)に賢治は歌にして発表しました。「よるのそらふとあらはれてかなしきは、とこやのみせのだんだらの棒」という作品です。この現象を忘れがたく3年後に書いた短篇「秋田街道」のAに挿入したのです。しかし同行した誰も夜空の異変に気がつかず、嘉内も「やみのなかで/黙って休む/橋の上、雨が一滴、水の上に降る」とうたっているだけです。
現在の諸葛橋は、稲荷町から前潟の手前まで諸葛川をまたぐ4車線の新秋田街道の一部分となっており、この新道の橋のたもとに旧網張街道の接点がある。
旧道は雫石川に沿いながら約2キロ半を経て上厨川柳原地区(岩手牛乳入口付近)で新道と合流しています。この間に二つの小橋(荒川橋、宗任橋)が架かるが、短篇のBに「道が小さな橋にかかる。蛍がプイと飛んで行く」とあるのは、小荒川から野子に通じる宗任橋を指しているとみられる。
何回目の「青春夜行」だったのか、一行の誰かが「アッ蛍」とさした指先を見ると、暗闇の中にみどり色のほのかな蛍の灯が明滅していたのです。それは宗任橋のそばの黒い川の茂みのなかでした。
昔の地図をみると平賀新田から小荒川や野子あたりまで水田が開けていて、野子には斜線記号の集落もあったらしい。そして農家を囲む杉の木立ちもあったのでしょう。水田を見ない現在では忘れ形見のように杉の大木がぽつんぽつんと立っています。これらの杉に感興をおぼえた嘉内はつぎの歌を詠んでいます。
やみのなかの/杉の木弾
正/すくと立つ/向ふに
途がいとも遠くに
杉の木の仁木弾正/夏の
夜の/たんぼのなかの/
黒い弾正
仁木弾正とは歌舞伎の「伽羅(めいぼく)先代萩」(通称先代萩)の悪役のことで、花道のスッポン(切り口)からせり上がってくる仁木弾正の姿を杉の木に見立てたらしい。いかにも歌舞伎通の嘉内ではの歌といえましょう。現在この付近に所在する三伸鋼機鰍ゥセントラル叶キ岡支店あたりから詠んだ杉の木なのかも知れません。
野子から柳原にさしかかったとき、嘉内は「幽霊の鼠の柳/その向ふの黒いよしの葉/ずぶ黒い川」とうたいました。鼠(ねずみ)の妖術をつかう仁起弾正のイメージを柳の木に比喩(ひゆ)したのものでしょう。
ここから800メートルほどで松並木となり、日向の一里塚を通過します。そして道は上り坂になって500メートルほどで旧厨川村と雫石村との境界の仁沢瀬橋です。Cの場面は少し手前にある四角い丘だったのでしょう。
C向ふの方は小岩井農場
だ。四つ角山にみんなべ
たべた一緒に座る。月見
草が幻より少し明るくそ
の辺一面に浮んでゐる。
保阪嘉内の《歌舞伎賛》(歌舞伎にちなむ作品)
*助六由縁江戸桜(「助六」)より
幸四郎の水入りの場の白ころも、意久のまくは白き綾絹 『アザリア』第一号
*新版歌祭文(「野崎村」)より
桜花、しっとり雨に濡れしほる、お染の雨にぬれしにぞ似て 『アザリア』第一号
*一谷嫩(ふたば)軍記(「熊谷陣屋」)より
秩父なる断層面の 熊谷は 陣屋の旭扇 広げて語れり 『アザリア』第三号
*明烏夢泡雪(「明烏」)より
塀越えて松の幹よりくだり来し時次郎かも、春の粉雪に 『アザリア』第四号
*其往昔恋江戸紫(「お七吉三郎」)より
本郷の振袖火事の吉三郎、富香がまくは麗はしき衣 『アザリア』第四号
*奥州安達原(「安達原」)より
左団次の宗任よしと三段目安達原の雪を踏み消す 『アザリア』第六号
*艶容(あですがた)女舞衣より
「よく夕方琴の音が聞える時などは盛岡、郷里の人を思ひ出します。『今頃は半七さん』といふ酒
屋の場のお園の台詞も身にひしひしと感ずる。」 「書信のままを」『アザリア』第七号
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