幕末の南部盛岡藩は世にいう東次郎と〓山佐渡ら家老の対立が激化してくる。いずれの派閥も1853年(嘉永6年)三閉伊大一揆による藩政変革が始まったことなど忘れたかのようであった。
後に日本鉄道理事員(現代で言えば常務取締役)となる大矢精助は江戸詰め藩士としてその現実に溺れ、やがて正気に戻り父大矢富弥(勘定奉行)、妻フキの父中村友ノ進(勘定方祐筆)らとともに藩を離れた。これより早く神官山田小也も前藩主南部利義(としとも)派として藩主暗殺未遂嫌疑をかけられ逃亡している。正に動乱の時代だ。
寛政〜文化年間にかけて藩主利敬(としたか)公が国学を好みその影響から周辺で出世した者共の子孫として尊皇・攘夷に傾倒していた。いわば当然の帰結である。一方、利済(としただ)公時代に確立された藩学問所の充実によって洋学をも競って学んだということも伝えられており、一見矛盾するがこれは尊皇攘夷の急先鋒たる水戸藩でも同様の現象がある。
結論として私の先祖は戊辰戦争直前に藩を捨て名を変えた。あるいはその思想的背景から明治維新以前に薩長と連絡があったのかもしれない。例えば豪商瀬川安五郎(初代南昌荘主)は古河市兵衞の手下でもあったが、同時に武器商人として暗躍しつつ薩長とも通じていた。同様なことが彼の知人たる者共に起きていても何の不思議があろう。
明治初期東北最大の商社小野組、南部盛岡藩内の東次郎派などから見れば薩長や佐幕はいずれも利益を挙げる対象だったのかもしれない。彼らもまた明治初期に分裂や破たんを迎える。共通認識として流通の近代化が必要ということは誰の脳裏にもあったはずだ。
(会社役員、57歳、盛岡市上ノ橋町) |