■ 〈賢治の置土産〜七つ森から溶岩流まで〉43 岡澤敏男 月見草が一面に浮かぶ丘
|
■月見草が一面に浮かぶ丘
日向の一里塚から約1キロ半の上りこう配となる。その坂道を上りきると、平らな台地となり小岩井農場に通じる網張街道入り口の下り道が分岐しています。
現在この分岐点に「安曇野」というそば食堂が開店しているが、明治・大正のころには「仁佐瀬の茶屋」があったらしい。
明治39年9月1日に盛岡〜雫石間に定期馬車が営業を開始し、仁佐瀬(仁沢瀬)駅を設けた縁で開店した茶屋だったのかもしれない。ちょうどその年の12月24日、俳人の河東碧梧桐が小岩井農場をめざし馬雪車(ばそり)でこの茶屋まで来て休んだとき、馬方たちが十人ばかり炉を囲んで酒盛りしていたという。「茶店とも酒保とも雪の一軒家」はその時の句です。
また雫石川の筏(いかだ)師たちは春木場から盛岡の杉土手まで春木の筏をあやつり、帰りは秋田街道を「うちがい(櫂)」をかついで戻る途中に仁佐瀬の茶屋でモッキリをひっかけワイワイ騒いだという。
その茶屋も深夜は戸締まりして無人だったのでしょう。賢治の「秋田街道」はこの茶屋には触れず「四つ角山にみんなべたべた一緒に座る」とだけ述べており、嘉内も「蕎麦の花の向ふにあるは/まるき丘、/風の起こりしはその丘の上」と詠んでいるのです。
おそらく坂の上の台地の北のはずれは四角に盛り上がっていたのでしょう。このだらだらした坂道は思ったよりきついのです。体験「青春夜行」でも台地の手前にある「仁沢瀬」バス停で5分ほど一服しています。
だから賢治一行が倒れるように「べたべた」と座ったという記述には共感を呼ぶものがある。
C向ふの方は小岩井農場だ。/四つ角山にみんなべたべた一緒に座る。/月見草が幻よりは少し明るくその辺一面浮んで咲いてゐる。マッチがパッとすられ莨(たばこ)の青いけむりがほのかにながれる。/右手に山がまっくろにうかび出した。その山に何の鳥だか沢山とまって睡ってゐるらしい。
嘉内にも月見草の歌が4首ある。この台地の一面に月見草が咲いていたらしい。
月見草の唐草模様、沈殿のきいろき、/を嘗めてみる時
月見草は一列に/黙ってならびたるか/われよりみれば/唐草模様
月見草はあんまり/口が無さすぎる/まっくらだとて/少し物言へ
月見草が/こんなにたくさん/いっときに/物を言へばこれでやかましかるべし
中学時以来、賢治はこの台地から網張街道の小道を下ってなんども小岩井農場に通いました。「向ふの方は小岩井農場だ」といったのは、そんな思いを重ねていたのでしょう。
「仁佐瀬の茶屋に休む」
河東碧梧桐著『三千里』(上)より抜粋
十二月二十四日。晴。
爪籠、はばき等十分の結束をして、小岩井農場を志して宿を出た。雫石街道の野原に出ると、満目雪を吹く微風は髭襟巻に氷柱(つらら)を垂らす。ちぢれた白銀の針のようじゃ。それで身には汗をかいておる。右にして行く南部富士は、半復以上雪模様の雲が漂うておる。
馬雪車(ぞり)、荷雪車の上下する中を二里来て仁佐瀬の茶屋に休む。馬雪車の馬方が、十人ばかりも炉を囲んで、ワンワン騒ぐのを見ると、鍋で煮た酒をモッキリで飲みまわすのである。一人の男が飲めぬというのを、イヤ飲んだのを見た、と総勢で無理矢鱈に茶碗をつきつける。喧嘩にでもなりそうな騒ぎであった。
なお一里農場への道は雪が膝を没するほど深い。往来の人がないので、まだ踏み固めてないのである。雪の上へ汗をたらすほど苦しい重い足を引きずって、あえぎあえぎ農場に着いた。先ず動いている水車が目に入る。洋犬が吠える。馬雪車が雪を蹴って右往左往する。裾野が広々と爪先上がりに展開して、富士は眉に迫って立つ。(以下略)
◇ ◇
【注】当時の農場理事勝木正臣と碧梧桐の亡兄は知己であった。勝木は明治39年に藤田猛虎理事の後任として農場に着任していた。 |
|
|
|
|
|
|