2008年 2月 20日 (水) 

       

■  〈口ずさむとき〉60 伊藤幸子 「ハルビンの空」

 ハルビンのわが家の空を旋回しラバウルに征きし少年なりき
  福光回玖子

 
  過日、盛岡市緑が丘の老人福祉センターにて、中国黒竜江大学副教授の張大生先生の講演を聴いた。「現代中国事情」のお話は大変興味深いものであったが、わたしはまず、先生がハルビンの方であることに引きつけられた。

  わたしは例年、旧正月のころになるとひもとく歌集がある。茨城県高萩市で長逝された福光回玖子さんの「武蔵野より」である。厳寒の季節に厳寒の地ハルビンで詠まれた作品を追ってゆくと、背後に戦争の暗雲がたれこめているとはいえ、氷上に遊ぶ子供や自らもフィギュアスケートに興じる姿などが活写されて明るい雰囲気に包まれる。

  明治42年生まれの作者は医師のご主人に従い、ソ連国境ポクラニチナャに4年、その後昭和17年ハルビン満鉄病院に転勤となる。30代で満鉄副参事だったというご主人のもと、東洋のパリといわれていたハルビンで使用人も多く明るい歌が見える。翌18年にはさらに南の鉄嶺病院に産科医長として転勤。

  やがてすぐ南の奉天までB29の来襲が伝えられ、掲出歌はそんな矢先のもの。「社宅の庭はアンズの花が盛りだったわ」と何度かわたしも聞かされた。そして、若鳥は帰らなかった。

  昭和54年、この本の出版に際してわたしたち手伝った者の間で、実は小さな賛否の声があった。少年飛行兵が白いマフラー姿で福光家を去るときに「おばさんが、おじさんの奥さんでなければいいんだけど…」とささやいた、という部分を削除したらという方がおられたのだ。

  すでにご夫妻とも70代末、ご主人は脳梗塞(こうそく)の後遺症があった。「いいの、そのまま載せて」とご本人の声。「あの人もこの人も死んでしまひました風の如くに過ぎし戦ひ」と、婉然(えんぜん)とほほえまれた姿は今でも目に焼き付いている。

  銀座の写真屋さんで撮られたという丸まげの面差(おもざし)は息を飲む美しさ。かつてわたしの30代を支えてくれた閏秀の「ハルビン」を、その祖国の教授にお尋ねしてみたい思いにかられた。


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