■フィーマスの野原
私たちの「青春夜行」では追分碑で小休止します。追分碑は仁沢瀬橋の西の坂を上りつめた丘(台地)に建つ秋田街道から長山方面への分かれ道の道標です。
この碑は明和6年(1769年)に長山村の篤志家が建てたもので懐中電灯で碑文をたどると、日と月が彫られ月の下に「左秋田往来」、日の下に「右長山道」とある。また秋田往来の下部に「是より左三丁程行沢内街道」と刻まれており、沢内街道へは約320メートル先にある板橋より入ることになっていたようです。
当時の地形図に「板橋茶屋」とあるのがその地点で、仁沢瀬の茶屋と同じように元御所(旧御所村)を経て沢内に通じる道の駅だったのでしょう。
賢治たちは追分碑に注意をはらうことなく尾入野に近づいたようです。
E道が悪いので野原を歩く。野原の中の黒い水
潦(たまり)に何べんもみんな踏み込んだ。けれ
どもやがて月が頭の上に出て月見草の花がほのか
な夢をただよはしフィーマスの土の水たまりにも
象牙細工の紫がかった月がうつりどこかで小さな
羽虫がふるふ。
なぜ道が悪かったのか最初はその理由にとまどいました。7月初めごろから豪雨があったらしいので、街道になにか通行困難な状況が生じていたのかと想定したが、39回(1月19日付)でとりあげた盛岡高等農林上村勝爾教授談で合点したのです。
これは大正10年5月8日付岩手日報にある記事です。「毎度ながら雫石を経て秋田に通ずる道路には呆れた。アレで県道だそうだから驚き入った。それでも盛岡から小岩井農場の入口まではやや人道をなしてゐるが、それ以西は殆ど人馬通行を避けて並木の外側を通行して居る。道路と言ふのは名ばかりで殆んど道路の用をなさぬ」「と言ふのは玉石を路面に敷くのはすでに道面を毀損(きそん)して益々悪くするものである」「然るに該道路には殆んど人頭大の玉石がごろごろと敷かれてあって」と語っています。
大正6年7月の街道も豪雨で荒れ路面に大きな玉石を敷いて補修していたのでしょう。それで並木の外側の野原を歩くことになり豪雨の後遺症である〈水潦〉にはまったのかも知れません。
ところで賢治は水たまりのある野原は〈フィーマスの土〉だったことに関心を寄せていることに気づく。フィーマス(humus)は腐植土といわれる黒土のことで短歌や詩や短篇、童話にもしばしば登場させている。
原義はラテン語のフムス(humus)、大地を意味するという。また英語のヒューマン、ヒューマニティーの語源ともいわれる。
賢治は〈フィーマス〉には植物の生命を養う大切な土としての敬虔な意識をこめているのでしょう。明け方近い空に雲がきれて月が顔を出しフィーマス野原の水たまりに象牙細工のように映る情景を、賢治は入神を込めて描いたのです。
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