■ 〈続・岩手の先人とカナダ〉19 菊池孝育 原敬9
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岡本、上原の労働移民周旋問題については一応の決着をみたが、ユニオン炭坑出稼坑夫の件は未だ未解決のまま残されていた。
明治25年10月26日にさかのぼる。原が朝鮮から帰京する前日、外務省は兵庫県知事から書簡を接受した。
「十月二十四日 周布兵庫縣知事ヨリ林外務次官宛/出稼人呼戻シ方ニ關スル件/官秘第六一號」である。
外務省移民課は原の意を受けて再三兵庫県に対し、明治移民會社を説得して、ユニオン炭坑出稼坑夫を呼び戻すように指示していた。そのことに対する回答に当たる。要旨は次の通りである。
外務省の指示通り明治移民會社を説得したところ「今之ヲ召喚(呼び戻し)候様ニテハ折角是迄ニ組織シタル會社モ最早分散ノ外無之」とのことから、11月末までの期間、呼び戻し実施について猶予して頂きたい。11月には「坑山」再開の望みもある。「其期ニ及フモ開業之運ニ立至ラサル様ナレハ(略)最早是非ナク召喚スヘシト決心イタシ居候様被存候此段囘答旁申進候也」
兵庫県は相も変わらず移民會社の弁明を鵜呑(うの)みにして外務省に回答している。兵庫県自体、この問題をいかに処理すべきか、定見を持っていないのである。定見があるとすれば移民會(会)社の利益の擁護に力点が置かれていると言える。外務省と會社の狭間で右往左往している様が伺われる。外務省(原移民課長)の態度は、カナダ在留日本人の保護(生命の安全と秩序の安定)の線で一貫している。従って両者の主張は噛み合わないのである。
現地の事態は逼迫(ひっぱく)していた。鬼頭副領事からの「機密信」報告によると、出稼坑夫の代表が領事館に出頭して坑夫の窮状を訴え、神戸に帰還できるように、移民會社を説得してほしい旨を陳情した。ユニオンに留まっていても将来の見通しが立たない。わずかばかりの飯米と燃料を売ってバンクーバーまで出てくるつもり、との悲壮な決意であった。
鬼頭は、移民會社の現地「取締人野村某竝通辯森田某貮名ハ其職ヲ辭シ(略)其儘失踪ニ付米國地方擔任之會社員伴新三郎ヲ呼寄セ」て窮状打開と坑夫の沈静化に当たらせた。
しかし百数十名の日本人坑夫は塗炭の苦しみを味わっていて、「人心激昂之折柄ニ付此上依然滞泊セシムル義ハ到底難相成」一刻も早く帰国させるべき、と鬼頭は判断した。そこで彼は帰国費用として最低額「米金八千六百三十五弗餘」を移民會社に送金させるように手配してほしい旨、本省に緊急上申したのである。
これまで外務省記録のとおり「ユニオン」炭坑なる呼称を用いてきたが、実際には炭坑名ではない。BC州バンクーバー・アイランド東海岸のカンバランドにあった「ウエリントン炭坑」がその正式名称であった。カンバランドから約13マイル(21キロ)離れた石炭積出港、ユニオン・ベイを炭坑名であるかのごとく誤認していたと推定される。
当時の日本人には、炭坑名よりも積出港ユニオン・ベイが広く知られていたことによるものであろう。明治42年に刊行された「加奈陀同胞發展史」(第一)に記載されてある同炭坑の概要を見ると一層判然とする。
「カムバーランドは晩香坡島の東岸晩香坡市を去る百十二哩の地に在り、人口約三千、品質良好なる石炭の採掘を以て有名なる所とす。同地のウエルリントン石炭坑は今より六十年前ダンズミアー氏(現ビーシー州首相の亡父)により始めて發掘されたものなるが(略)我同胞が始めて同坑山に就働したるは明治二十四年十月の事にして其當時伴新三郎及二ノ宮幾太の兩氏は我明治移民會社の手を經て百名の移民を伴ひ來れり、超へて翌年八月にも亦七十三名の移民は日本より渡來して同坑山に就働せり(略)同地を距る十三哩の地にはユニオン灣あり、同所は汽船の寄港地にしてカムバーランドにて採掘されたる石炭は皆な此地に運搬され、更に汽船に搭積して各地へ輸出さる(以上ママ)」
「發展史」の内容は、これまで検討を加えてきた外務省資料と全く符合するのである。
原移民課長は11月5日、「『ユニオン』炭坑出稼人ノ義ニ付晩香坡領事代理ノ報告ヲ囘付シ移民會社ヘ示諭セシムル件」を兵庫県知事宛に外務次官林薫名で発した。
内容は、現地の切迫した状況を縷々述べ、「尚篤ト事情移民會社ヘ御示諭ノ上豫テ送金(出稼人帰国費用)之用意致置候様御取計相成度此段申進候也」と結び、別紙として「晩香坡鬼頭領事代理ヨリ差出セル機密信ノ分二通」を添付している。
ところが兵庫県への文書発送直後、外務省は鬼頭領事代理から意外な文書を収受して、「ユニオン」炭坑事件は急転回して一応の決着を見ることになる。 |
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