僕がバンドマンだったころ、大阪には何軒かのジャズ喫茶があった。今よりもジャズに力があり、時代の流行の先端のいくばくかを担っていたころだった。そんな中のひとつ、Blue City(ブルー・シティ)は、阪急京都線の下新庄(しもしんじょう)にあった。
下新庄は名前のイメージ通り、完全にローカル駅である。同じ阪急沿線に住んでいた僕には、乗り換えが必要であり、決して降り立つことのない駅だった。それでも、そこに行ってみようと思ったのは、その名前に惹(ひ)かれたからだった。
そのころ、ベーシストの鈴木勲が、リーダーアルバムを出した。そのタイトルが、まさに「Blue City」だった。僕は、彼のライブを見にゆき、そのタイトルチューンである「Blue City」のちょっと寂しいメロディーに惹(ひ)かれていた。
Blue Cityのマスターは30代半ばで、長髪に口ひげを伸ばしていた。店にはアップライトのピアノとドラムセットがあり、ライブができるようになっていた。
何度か通っているうちにマスターがサラリーマンを辞めて店を開いたと聞いた。そのころは、へぇそうなんだ、程度の関心だった。しかし今になって考えると、それは相当の覚悟がいったことだろうと思う。
こういう業態で食ってゆくのはミュージシャンで食ってゆくのと同様容易ではない。それでも、それを選択したのは、やむにやまれぬ心の衝動だったのだろう。
「家族は?」と聞いたとき、「かぁちゃんとは、別れてしまった」と寂しく笑った。
僕が大阪を離れるころまでBlue Cityは営業を続けていた。今は、もう店がないと聞いた。
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