盛岡三十三観音第11番札所は紫雲山円光寺(加藤光順住職)。盛岡市南大通3の11の49にある浄土宗寺院。市内最古の建築物である本堂を持つ。
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眼病に霊験あらたかと伝えられる円光寺の生目観音 |
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創建は生蓮社良往上人一白大和尚により寛文年間(1661〜72)。元禄年間(1688〜1703年)には第八世良観上人辨誉和尚が本堂、庫裏山門、鐘楼を建立した。11番札所となっている生目観音堂は盛岡藩第4代藩主南部行信の時代に創建され、生目観音も安置された。特に眼病に霊験あらたかであると知られている。
日向国の延岡(現宮崎県)から遷座した生目観音像は室町期の作品と伝わる。台座を含め約50センチ。漆黒の菩薩は切れ目の端正な顔立ちで小さく鼻、口が見える。06年6月に京都の仏師に頼み、厨子を特注。朽ち果てた装飾品も輝く青銅で再現した。緻密にかたどられた17枚の蓮弁に乗り、左手には未敷蓮華を寂しげに持つ。
本来は観音堂に安置すべきではあるが、近年、盗難が相次いだことから現在は別に安置されている。それでも、信仰厚い人々は月に何度もお参りするという。
生目観音の伝承には物悲しい秘話が残されている。藩主南部行信公の側室となったお蓮(蓮子)の物語である。1675年(延宝3年)、奥女中だった川原町の蓮子の父、岩井与一郎が切支丹(キリシタン)の罪を問われ、小鷹刑場で斬首の上、梟首(きょうしゅ)された。夜半、蓮子はひそかに闇夜にまぎれて父親の首を盗み、北上川を渡り寺々を巡った。切支丹の首を持った子を入れようとする寺もなく、蓮子は悲嘆にくれていたが、同寺の第八世良観和尚は「寺の運命を賭すとも死者の回向は和尚の勤め」と快諾し供養した。
それを聞いた行信公は、同寺も蓮子もとがめることなく、逆に蓮子の孝心の深さを知り、蓮子を側室に迎え入れた。その後、切支丹として処刑された親の菩提のために首塚が建てられ、日向国延岡にあった観音像を遷座した。
■南部相撲の発展に貢献
同寺にゆかりの深い蓮子の弟、富一(岩井左太夫)は南部相撲の隆盛にも深く関わっていた。南部相撲を研究する奈良女子大学院の木梨雅子助教の著書などによると、1676年(延宝4)、南部相撲の基礎を築いた生方次郎兵衛家勝は、自らの子息を南部相撲の後継者に選ばず、この富一を後継者に選び、岩井の名を与えた。
この時期、城下では民衆の信仰のよりどころとするために、新しく盛岡八幡宮が造営された。富一は盛岡八幡宮を建立するための勧請相撲などにも尽力したと伝えられている。 |