■ 〈賢治の置土産〜七つ森から溶岩流まで〉47 岡澤敏男 七つ森の不機嫌な暁の脚
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■七つ森の不機嫌な暁の脚
旧板橋茶屋のあったあたりは、昭和47年に御所湖が着工される際に湖底に沈む520世帯の多くが移住して東町を構成し、さらに七つ森団地へと広がっています。街道に軒を連ねる町並みがつづく板橋地区を左に大きくカーブしていくと、やがて七つ森の「生森(おおもり)一里塚」に着きます。当時はまったく沈黙する街道だったのでしょう。靄(かすみ)の中から藍(あい)色にめざめる山影を見ながら嘉内は次のように歌いました。
藍いろの七つ森山/草の葉が青いと/言ふが/少し 明(あきら)か
遠くの林は/まだ黒く見ゆれど/草の葉はいつか/ だんだん青に向へり
草の葉が青に向へば/キラキラと/光るダイアモン ド/朝の露のしずみ
夜通し歩いた嘉内の疲れを忘れさせたのは朝露を宿す葉の色でした。それは浮世絵のベロ青(ベルリン・ブルー)を連想するもので、嘉内の胸は歓喜に膨らみ夜明けのトランペットを歌いだしました。
明けてゆくひがしの/林の青やかさ、/浮かべる雲のにぶ色の白
大空の象牙細工の/木陰と、よどむ/白雲/すこしふるびぬ、ペルシャの月
雲去りて又雲が来たる/大空の月の象牙の/一巻の銀
Hみんなは七つ森の機嫌の悪い暁の脚まで来た。道がにわかに青々と曲る。その曲り角におれはまた空にうかぶ巨(おお)きな草穂を見るのだ。カアキイ色の一人の兵隊がいきなり向ふにあらはれて青い茂みの中にこごむ。さうだ。あそこには湧水があるのだ。
七つ森で街道に接しているは生森(おおもり)のことで、その「暁の脚」とは生森の麓にある一里塚(北側)の土塁を指したものでしょう。「機嫌の悪い」生森とは、例の七つ森の払い下げ認可の際に代金捻出(ねんしゅつ)のため全山の立木を伐採しはげ山にされた不満を指すもので、連載32〜36回によってご参照ください。
現在の生森の脚は松の樹林で鬱蒼(うっそう)と薄暗いのですが、この松林は大正5年以降に造林されたものです。生森に沿って街道をカーブしながら下っていくと曲がり角から坊主山の山稜(りょう)が見えてきました。生森の無念さを秘めた「巨きな草穂」が黎明(れいめい)の空に浮かんでいます。賢治は『アザリア』第2号にこのときの情景を次のように詠みました。
夜をこめて七つ森まできたりしに、はやあけぞらに草穂うかべり
ふいに軍服の兵隊が現れ青い茂みにかがんで湧水を汲みました。それは賢治だけの幻視だったのか、彼以外のだれも気がついていない。生森の西側をめぐるクキタナイ川の周辺には、その当時なにか幻想をかきたてる茂みがあったものでしょうか。
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