■ 〈賢治の置土産〜七つ森から溶岩流まで〉51 岡澤敏男 「奉祝の馬頭神」かも
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■「奉祝の馬頭神」かも
この投石歌(59の歌)のひとつ前に詠まれた嘉内のつぎの一首(58の歌)は、何やらたいへん興味をそそるものがある。
「奉祝の馬頭神」かも/あけがたの/ぽつんとありし/石の目標
いったい、この馬頭神(馬頭観世音)を嘉内はどこで見かけたのだったのでしょう。一連の歌の配列順からみて、とりわけ健吉の枕もとに「ぼちゃんと石を/水中に投ぐ」という歌の直前に置かれていることは、葛根田川原の近くに所在する石仏と推察される。また「石の目標」とある「目標」とはいったい何を指すのか。それもまた推理を刺激する一句です。
そこで賢治たちが葛根田川原で睡った場面からビデオテープを巻き戻すようにたどると、すなわち葛根田橋のたもとから後ろ向きに道順をたどって行くと、やがて高前田一里塚のフロントに行き着くのです。
すると一里塚の土塁の2、3メートルほど手前に文字を刻んだ自然石の石碑があったのです。
その石碑の中央には崩し字で3文字が刻まれ、どうにかこうにか「馬頭尊」と読みとれました。あるいは「馬頭神」とあるものかもしれません。しかし民俗辞典には馬を供養する石仏には「馬頭観音」か「馬頭尊」の文字を刻むのが通例だとされており、やはり「馬頭尊」でよいのでしょう。
この「馬頭尊」の右側には明治「弐八年」とあり、左側には「五月四日」と刻まれており、供養した飼馬の命日を示す年月日だと察せられます。この「馬頭尊」の石仏は一里塚(右側)の少し手前にある畑の縁に建っております。
畑の所有者である諏訪さん(雫石町小日谷地)を訪ねてうかがった話では、大正6年ころはどうだったか不明だが、現在では毎年旧盆に「馬頭尊」にお供えものをして供養されているそうです。大正時代には嘉内の短歌にあるように、7月上旬ころ(旧暦の5月の命日にあたる)お飾りし供養していたのかも知れません。
ただ諏訪さんによると、現在の畑のある辺りは原野だったと伝承されているらしい。そうすると一里塚の周辺は、現在のように住居や作業所などもない一面の野原で、「馬頭尊」の石仏は一里塚のフロントの野原に建っていたことになる。まさに嘉内が「ぽつんとありし/石の目標」と歌った情景と合致するのです。
明治11年の大洪水によって、一里塚を直進していた街道の路線が一里塚の前から南につけ替えられたという。その一里塚から南に迂回(うかい)する曲り角の辺りに、追分道標のように「馬頭尊」の石仏が建っていたものでしょう。
嘉内が「石の目標」(目標の石仏)と歌ったのはその意味だったと思われます。嘉内の歌は大正6年にタイムスリップさせる叙景歌で、「馬頭尊」の石仏を焦点にほのぼのと描かれているのです。いま一度、嘉内のこの歌を読み返してみてください。
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