■ 〈続・岩手の先人とカナダ〉22 菊池孝育 原敬12
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「ユニオン炭坑」なるものは存在せず、石炭の積出港である近隣のユニオン・ベイ(湾)と混同した誤用であると前に述べた。実際の名称は「ウエリントン炭坑」である。同坑は、バンクーバー・アイランド(島)東海岸のほぼ中央部、カンバーランドにあった。コマックスやコートネイに近い。
M・フィツジェラルド氏の論文によると、最初の日本人坑夫が同坑に雇用されたのは明治23年であった。日本からの彼等の渡航費用は炭坑会社(カナダ・コーリアズLTD)によって前払いされた。明治26年、この坑夫町が英国の炭坑町カンバーランドにちなんで、坑主ダンズミュアによって命名された。従って出稼坑夫が問題になった時点ではカンバーランドという地名は存在しなかったのである。
初期の日本人坑夫173名が、渡航後ほぼ3年以内に雲散霧消したことは、太平洋戦争勃発後に、カンバーランドの全ての日系移民が、大陸内陸部に強制移動させられた事実に匹敵する惨憺(さんたん)たる結末であった。
明治25、6年の悲劇以後、再び、多くの日本人坑夫がカンバーランドに渡った。劣悪な労働環境は徐々に改善され、就労形態も請負から賃働き(日当制)に変わった。
その後のカンバーランドの炭坑事情について「加奈陀之寶庫(明治45年記)」は次のように記している。
「カ市(カンバーランド)並に附近に在留する本邦人は二百十名程にて、炭坑に就働せる同胞は約百三十名あり。其他は伐木キャンプ及び農業に從事する者にて、炭坑に働く同胞は二弗五十仙乃至四弗内外の日給を受け、彼の英國に於ける石炭坑夫大同盟罷業の影響により各炭坑共非常なる好況にして、随って日本人も良好なる状態にあり。」
明治25、6年頃の悲惨な生活に比べ、隔世の感がある記述である。
また「加奈陀同胞發展史第一」は同炭坑の規模とカンバーランドの様子について次のように記している。
「同炭坑就働者總數は一千六百五十餘名なるが、内支那人九百、白人五百、日本人百五十、伊太利人一百名の割合なり、然して是等は各所に分居し、現時俗に稱するカンバーランド町は即ち白人の居住地を指せるものなり同所には広壯なる教會、旅館、商店等ありて純然たる市街をなせども、支那人、日本人、伊太利人等は夫々自國風の部落をなし、各所に居住す。」
当時1千人以上の鉱山は数えるほどしかなかった。明らかに大鉱山の一つであった。鉱山従業員の人種構成を見ると、白人(イタリア人を除くヨーロッパ系白人)30%、社会の下層階級と見なされていた「支那人」、日本人、「伊太利人」合わせて70%である。大概、危険を伴う鉱業、建設業(トンネル、橋梁、道路、鉄道)などの現場労働者の人種構成は似たようなものだった。そして「支那人」と日本人が最も危険な作業を割り当てられた。賃金も危険度が高いにもかかわらず、最低に甘んじなければならなかった。このことは、東洋人が一段低く見られていたことの証左でもある。
加えて「支那人」と日本人は賃金の多寡よりも、常時雇用されることを重視した。低賃金を自ら招いていたとも言える。自分の要求水準以下の賃金では決して働こうとしない白人に比べて、安価で便利な労働力であった。イタリア人はヨーロッパ系白人の中で、最下等に見なされたが、「支那人」や日本人よりも優遇されたのである。今でいう人種差別は厳然と存在した。
カンバーランドの中心街には、キリスト教教会を中心に英国人を主とする白人が同心円をなして居住した。日本人集落は中心街から約1哩(マイル=1・6キロ)離れた地域に、220余名が住んでいた。「基督教分教龠」や商店もあった。
それぞれ人種ごとに「分居」していたのは人種差別の存在だけが理由ではない。言葉の障壁があったからである。各国移民の大半は母国で十分な初等教育を受ける機会もなかった。英語の事前教育など望むべくもなかったのである。従って、言葉の通じる者同士(同人種)が肩を寄せ合うようにして集落を形成した。風俗、習慣、言語、生活様式が同じであれば、母国にいるような安心感があった。その上、相互扶助のシステムまで設けるようになっていたのである。
原は移民課長として担当した移民会社の問題や移民周旋業者の暗躍等から、早急に国としての移民政策を樹立すべきであると痛感した。当時の外務相で原がやろうと決めたことはほぼ百パーセント実現した。
鈴木定次の「原敬物語」によると
「ある時陸奥(宗光外務大臣)が原(当時移民課長)とさんざん議論したあげく原に向かって『おれは大臣だ。(略)命令に服従せよ』と言い放った。負けずぎらいの原は『(略)命令とあらば絶対に服従いたしますが議論では、私は一歩もゆずりません』(略)さすがの陸奥も『そうか、それではお前は腹を切る決心でその説の通りやれ』」
とのエピソードがあった。
前にも書いたが、当時の外務相は、組織を以て懸案を処理することよりは、個人の能力で物事を進めて行ったのである。陸奥宗光の信任のもと、原は移民問題の全てを取り仕切ることができた所以である。 |
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