【啄木の歌】
友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
花を買ひ来て
妻としたしむ
〔現代語訳〕友人達がみんな自分より偉く見えてたまらない日です。(だから)花を買って来て妻と睦み合うのです。
【賢治の歌】
友だちの
入学試験ちかからん
林は百合の嫩芽(どんが)萌えつゝ
〔現代語訳〕(共に中学校で学んだ)友人達の(上級学校への)入学試験は近いでしょう。(一方、上級学校への受験を許されない自分は、林で百合を掘っているのですが)この林の百合の若芽は芽を出しつつあるのです。
〔評釈〕不遇時代は誰にもある。「不遇」を、その人が持っている力量とそれに対する社会の待遇だとすれば、才能にあふれていた啄木・賢治の感じた思いは、一般の人に比べて大きなものであった。
啄木の場合は、既に彼の「晩年」とも言える「明治四十三年」作品を、賢治の場合は、中学校を卒業して上級学校への進学も許されないままに家に帰り、病後を養っている時期のものを掲げた。啄木の場合の凄さは、抽出歌においても、啄木個人の感慨を越えて「不遇の者が、誰でも感じる思い」の普遍化を成し遂げていることである。
これに比べると賢治の場合は、個人の嘆きに即しているように感じられる。抽出歌に続いて「またひとり/はやしに来て鳩のなきまねし/かなしきちさき/百合の根を掘る。」〔「歌稿〔B〕」146)〕もあるが、「かなしきちさき百合の根」はもちろん話者が悲しいのである。「妻」の出てくる啄木と結婚しなかった賢治にも触れたいがもう余裕がない。
(盛岡大学長) |