白秋を超えむ童謡をぞ願
へりし巽先生の戦時偲ば
ゆ
海住良太郎
「私は昭和15年、故北原白秋先生主宰の〈多磨〉に入会。翌年から現地抑留生活を含め6年間在満部隊に従軍し、帰還後数年間、巽聖歌先生の御庇護(ひご)を受けました。そしてその〈新樹〉廃刊後は昭和42年〈コスモス〉に入会迄20年近く、詩歌の世界と絶縁しました。…」これは昭和54年刊行の海住良太郎第1歌集「凍野」のあとがきである。宮柊二題簽(だいぜん)、聖歌夫人野村千春氏の美しい花のデッサン三葉が掲げられ胸を打たれる。
氏は大正8年大阪生まれ、戦後はミシン会社に長く勤められ、その後神戸県民会館勤務。昭和58年病気で逝去、63歳。百箇日には奥様の看護記録を含む立派な遺稿集「じいちゃんのうた」が上梓された。内助の功はもとより、周辺の文化人達との厚い信頼関係が伝わってくる。
いうまでもなく「新樹」は現代の「北宴」の前身。昭和21年、日詰に疎開されていた巽聖歌のもとに拠(よ)った文化人達のことは今も時折話題に上る。終戦前後の時代背景、白秋の「多磨」解散に伴いさまざまな歌人集団の興亡の中で「新樹」の旗印はきわだったと聞く。掲出歌のように「白秋を超えむ」と熱く語り合う師弟の心意気が思われる。
何にしても私の生れる前の話。北宴歌会でももっぱら聞き役だったのだが、ある年の全国大会に出席の時のこと。各地の「新樹」の旧会員だった方々と知り合い、神戸の海住さんのことも伺った。私は歌誌入会は氏と同年ぐらいだったが生前お目にかかる機会はなかった。聖歌のことも作品や写真で知るのみである。
「喪の色に熟れし八手の実に吹きて風乾きゐるゆふべなりしか」昭和48年〈巽先生逝去さるる〉と詞書(ことばがき)の歌。また「水口の詩碑竣(な)るけふを慶べどみちのく遠し病み臥しの身に」と詠まれたのは昭和56年7月。このころから入退院の日々だったという海住さん。どんなにか碑前対面を願われたことだろう。「新樹」のご縁60余年、聖歌35回目の命日を迎えようとしている。
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