2008年 4月 18日 (金)
■ 〈還暦迎える青山小学校〉11 向井田郁子 遊び場はダンスホール
観武(みたけ)ケ原を2本も流れている川が、子供たちの遊び場として喜ばれたのも夏休みの半ばごろまで。2学期が始まると、広い野原を吹き渡る風も寒い冬の訪れが近付いていることを気づかせる。学校の行事の中にも、ストーブのたき付け用に全校挙げての杉の葉拾いが組み込まれる。
青山保育園も旧偕行社跡の一部を利用した時代があった
夏の間は家にいることがめったになくて、いつもどこかへ風のように飛んで遊び歩いていた子供たちも、薄暗さもいとわず教室に引きこもるようになる。学校でも何とか空き教室を造っては、授業時間の間や放課後ぐらいは遊ばせようとするが、夏ほどの活発な動きは見せない。
当時、学校内に全校児童が集まる場は、全校朝礼があった校庭ぐらいのものだった。学芸会や発表会の会場としては偕行社跡の建物が使われた。当時の偕行社跡建物は相当に広い面積を持っていて、一時は共同浴場からダンスホール、貸家、保育園園舎などに幅広く利用されていた。そのうち今も跡地建物の近くに存続して園舎を新しくしているのが青山保育園である。
それ以外の部分では、ステージ付きのホール部分が時には青山小学校や厨川中学校の学芸会場になったこともあって、若い先生たちの合唱で「ボルガの舟歌」もこのときに初めて聴いたような気がする。この建物の管理を取り仕切っていたのは、小学校のPTA会長でもあった、仙人のような顔をした開拓団長だった。
外地でも戦後は相当な苦労をして自分の妻子ばかりではなく、開拓村の家族も率いて日本に帰ってきた人らしく、PTAの会員たちの間では、太っ腹で何かあったときには頼りになる親分肌の人として人気があった。
自分たち一家が借りて入っていた偕行社跡の建物についても、町民たちが娯楽施設や研修施設に借りたいと願えば、空いている部屋があればいつでも貸し出しの労をとってくれた。だから、昼間は学校関係の発表会場、夜は娯楽のない町の演芸会場としてにぎわった。
これには子供たちも喜んだ。夕方、学校がひけてから建物をのぞくと、町内の青年たちがどこから手に入れたのか、レコードなどを持ち込んで、ジャズの曲に合わせてダンスを踊っている所に出会わすことがあった。
ステージ付きの部屋では演芸会が開かれ、歌や踊りの得意な子供がステージで演じて見せて町のアイドルスターになることもあった。横浜では美空ひばりが「天才少女」の鳴り物入りで、プロの歌手デビューしたニュースが盛岡の青山地区にも流れてきていた。
子供たちの中には学校で習う歌の練習よりも、夜の町内演芸会で上手に歌や踊りを披露して見せ、大人たちの拍手を受けることの方に一生懸命になる子供が出てくる始末だった。こういう子供たちの実態を見て、頭を悩ませたのは学校の先生たちである。
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