2008年 5月3日 (土) 

       

■  〈賢治の置き土産〜七つ森から溶岩流まで〉54 岡澤敏男 岩手公園のアーク燈

 ■「岩手公園」のアーク燈

  短篇「秋田街道」を地理的な読みをしながら賢治たちと一緒に歩行してきましたが、ちょっとプレーバックをしてみます。この短篇に妙に気をひくフレーズがあったのです。おそらく当時の賢治の気分状態が乗り移っているフレーズとみられます。

  三カ所あったそのひとつ〈日照り雨〉についてはすでに指摘しているのではぶきます。いまひとつは最初の段落にみられる〈アーク燈〉というフレーズです。夕顔瀬橋を渡り新田町を通過し雫石川のほとりに出た辺りの地点で賢治が来た方を「かなしく」ふりかえった時のことでした。すると、

  「盛岡の電燈は微かにゆらいでねむさうにならび只 公園のアーク燈だけが高い処でそらぞらしい気焔の 波を上げてゐる」

  のが目に映ったのでした。

  賢治はこの短篇のほかにアーク燈(アークライト・孤光燈)を4篇の詩に出現させております。そのうち「有明」(「春と修羅 第二集」)、〔あけがたになり〕(「春と修羅 詩稿補遺」)、そして「岩手公園」(「文語詩稿 一百篇」)の3篇には、アーク燈が盛岡の象徴として表現されていることに注目されます。

  これはアーク燈が街灯として盛岡にだけあったこと、しかも盛岡の歴史を刻む南部藩の居城だった「岩手公園」(現在は「盛岡城址公園」)でしか設置されていない街灯だったからなのでしょう。いったい賢治とアーク燈との出会いはいつだったのか。

  アーク燈の発明は1807年(文化4年)にヨーロッパで実験的に始まり、それがアメリカで改良され街灯になったのは1878年(明治11年)のことだという。わが国に出現したのはその4年後のことで、明治15年11月1日に「アーク灯銀座に点灯」という記事が明治世相史にみられる。

  アーク燈が盛岡に出現するのは、それからちょうど21年後の明治36年11月3日のことだったらしい。それは「盛岡電気会社」(東北電力盛岡支店の前身)の開業式が料亭秀清閣で盛大に行われた日で、本店にはイルミネーションや花電燈を飾り、また会場の秀清閣庭園には「千二百燭アーク燈三個」を設置、「砂の数さへ見よ」とばかりに光を発したという新聞記事がある。

  さだめし来賓の名士たちが初めて出現したアーク燈に驚異の目を見張ったことでしょう。このように明治36年に新発足した盛岡電気会社にはアーク燈を街灯化する技術を備えていたとみられるから、3年後の明治39年9月15日に開園された「岩手公園」にアーク燈が設置されてもふしぎではない。しかし開園行事を報道した新聞記事はアーク燈の存在をまったく無視しているのです。たぶん行事が日中でアーク燈に点灯されなかったので記者の目にとどかなかったからなのでしょう。

  アーク燈は未確認ながら開園された岩手公園に設置され、夕暮れともなると耿々(こうこう)と盛岡城址に輝き明治42年に盛岡中学生となった賢治にカルチャーショックを与えたことでしょう。

本ページ掲載内容の無断転載を禁じます
ホームページに関するお問い合わせ、取材に関する情報は
E-Mail:hensyuu@morioka-times.com
盛岡タイムス宛てにお願いします