■ 〈賢治の置土産〜七つ森から溶岩流まで〉55 岡澤敏男 東京銀座通りのアーク燈
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■東京銀座通りのアーク燈
たまたま明治15年の「東京銀座通電気燈建設之図」という一枚の錦絵を見る機会があった。それは明治15年11月1日の夕方、銀座通りに2000燭光(2キロワット)のアーク燈が点灯したときの光景を描いたもので、銀ブラに訪れた着物姿の紳士淑女たちがアーク燈のもとでポカンと見上げている図です。
これまで街灯としてガス街燈しか見ることがなかった東京市民も「其ノ光明数十町ノ遠キニ達ス」というアーク街燈の出現にはカルチャーショックを受けたことと思われる。カルチャーショックのなごりは文学作品にその痕跡を残している。
北原白秋の処女歌集「桐の花」(大正2年)に3首のアーク燈の歌をみる。つぎはそのひとつ。
空見れば圓孤燈(アアクライト)に雪のごと羽虫たかれり春よいづくに
また夏目漱石は小説「三四郎」(明治41年)の九の段における野々村と田村との会話にもアーク燈(孤光燈)を挿入するなど、大学生たちにも知的関心をよんだことを示している。
このように炭素の電極間にアーチ型に放電し淡紫色の強烈な光を放つ岩手公園のアーク燈が、中学生となったばかりの賢治の感性に強烈な刺激を与えずにはおかなかったのでしょう。
当時の盛岡中学の校舎は内丸の現在の岩手銀行本店(三田商店ビルの向かい側)辺りで、岩手公園とは目と鼻の間に位置していたから、岩手公園の本丸や二の丸に灯(とも)るアーク燈は寄宿舎の2階から望めたのでしょう。
花巻に電燈が点火したのは大正元年のことでランプの照明になれた賢治にはアーク燈のまばゆい光にカルチャーショックを覚えたに違いありません。ちなみに内丸校舎が上田の現校舎に移転したのは大正6年8月のことだという。中学5年生の10月ごろ、秋の西山にふりそそぐ夕日をアーク燈に比喩(ゆ)したとみられる短歌もアーク燈の刷り込まれた深層心理をかいまみせているのです。
山なみの暮の紫紺のそが
西にふりそそぎたる
黄のアークライト
賢治は盛岡中学入学する前年の花城小学校6年生のとき、遠足で盛岡を訪れ岩手公園にも足を運んでいるので、点灯していない街灯だったが引率の先生からアーク燈の説明を受け記憶していたのかもしれません。
そして大正6年4月、盛岡高等農林3年のときに盛中に入学した弟清六や従弟たちの監督を兼ね、中津川の下の橋際にある玉井郷方家に下宿するのです。
玉井家は盛岡城の西側にある石垣に向い合っていたから、賢治は岩手公園のアーク燈のもとで暮らす日課となり、いやがおうでもアーク燈は賢治の深層心理に深く刷り込まれていったはずです。それが、なんらかの気分状態に陥ったとき淡紫色のアークを放電して賢治を幻想世界に誘いこむのです。
公園のアーク燈が「そらぞらしい気焔の波を上げている」とはその放電する状態を意味し、それがきっかけで灰色の夜空に「大きな床屋のだんだら棒」を幻視するのです。
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