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北上川舟運規則/増田磐井県令 |
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1885年(明治18年)の春、大矢精助は第一国立銀行盛岡支店長尾高惇忠と何度も懇談を重ねていた。
昨年の盛岡大火から免れた加賀野・磧町(からちょう)の大矢邸は剣術指南道場を改装し邸宅としたものだがここは地元要人の密談の場でもあった。
この屋敷は後年1910年(明治43年)の中津川洪水で土地ぐるみ流失する運命となっていく。
資本金は当時では巨額の1万5千円、初代社長に大矢が、副社長に太田小二郎が就任した。いずれも秋田荒川鉱山に一度は関係している。その鉱山主瀬川安五郎は同年に現代の「南昌荘」の基礎となる邸宅建築に着手した。瀬川の旧邸も焼失していた。
明治以来は岩手組という組織による舟運などもあったが、西洋式の会社として結成された「北上回漕会社」は新時代をアピールするかのように新型蒸気船「岩手丸」を就航させて一関の孤禅寺と石巻港を結んだ。
大矢精助を口説いた尾高は第一国立銀行頭取の渋沢栄一の従兄で埼玉の郷士出身、瀬川と組んで設立の盛岡商法会議所幹部として凶作に備える倉庫の新設や無線電信での暗号の用い方、養蚕や藍染(これは埼玉で盛んだった)の技術を指導していた。
産業や金融機関の育成が東北の振興に直結すると説いて回った結果と盛岡大火によって新しい生きかたを模索していた旦那衆の思惑が一致した。
内務省土木局からの転身である石井県令は道路の改修を推進していくが、この過程で多数の駅馬車路線が生まれた。そしてこの業者らは後に鉄道事業と連携して物流配送の円滑化へとシステム化されていく。(盛岡市上ノ橋町、会社役員)
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