2009年 1月 3日 (土) 

       

■ 〈賢治の置土産〜七つ森から溶岩流まで〉89 岡澤敏男 シベリア派兵と賢治の戦争観

 ■シベリア派兵と賢治の戦争観

  賢治が盛岡高農3年生のときロシア十月革命によってソビエト政権が樹立しました。それは第1次世界大戦が生み出したもので大正6年(1917年)11月のことでした。社会主義国家誕生によって自国の労働者階級への波及を恐れた英仏はロシアの反革命派援助のため12月に対ソ干渉計画を企画し、翌7年1月に日米両国にもシベリア出兵を要請してきました。

  賢治は3月卒業後、徴兵検査が予定されているのでシベリア派兵は身近な問題として意識されたのでしょう。大正7年2月の『アザリア』第5号に載せた「復活の前」と題するエッセーで、次の刺激的な文章もそうした背景を抜きにして読むことはできません。
 
  〈戦が始まる。こゝから三里の間は生物のかげを失くして進めとの命令がでた。私は剣で沼の中や便所にかくれて手を合せる老人や女をズブリズブリとさし殺し高く叫び泣きながらかけ足をする〉
 
  ちなみに保阪嘉内も同じ第5号に「社会と自分」というエッセーを発表し、そのなかで〈ほんとうにでっかい力。力。力。おれは皇帝だ。おれは神様だ。/おい今だ、今だ、帝室をくつがえすの時は、ナイヒリズム。〉と記述した個所がロシア革命思想とみなされ、退学処分の筆禍要因となったらしいのです。

  小菅健吉も「心の革命」というエッセーを発表しており、それぞれ「アザリア会」メンバーたちロシア革命の反響がよみとれます。

  徴兵により跡取り息子の賢治がシベリアに派兵され戦死する懸念をもつ父政次郎は、卒業しても研究科に残れば徴兵検査が猶予されるので、賢治に研究科への残留を強く迫りました。賢治は徴兵逃れのため研究科に残ることを潔よく思わなかったので、結果はどうあれ徴兵検査を受けることを条件に研究生として残ることにしました。しかし、シベリア派兵を懸念する父を安心させようと、賢治は父への書簡に法華経信者としての死生観や独自の戦争観を述べています。

  〈妙法蓮華経に御任せ下され度候。誠に幾分なりとも皆人の役にも立ち候身ならば…義理なき戦に弾丸に当る事も有之間敷と奉存候〉

  〈戦争とか病気とか学校も家も山もみな均しき一心の現象に御座候。その戦争に行きて人を殺すと言う事も殺す者も殺さるゝ者もみな等しく法制に御座候〉(大正7年2月23日)

  〈戦争は人口過剰の結果その調節として常に起るものに御座候〉(同3月10日)

  また嘉内への書簡にも〈退学も戦死もなんだ。みんな自分の中の現象ではないか 保阪嘉内もシベリアもみんな自分ではないか〉(3月14日前後)と書き送っております。このようにシベリア派兵と向き合っていたころの賢治の戦争観は、戦争の原因を政治・経済などの問題から目をそらして、戦争を家や山と等しい自然現象とみなし、過剰人口の調節とみなし、個人の意志を超えた法制ととらえて戦争を否定せずに受容し、戦争での殺戮(さつりく)を肯定し非戦闘員までも〈ズブリズブリ〉と刺殺するのも兵士の義務として遂行せざるを得ないと判断したのです。だからこそ法華経の信仰によって戦死の免罪符を得るという他力本願に依存した戦争観となったとみられるのです。

  こうしたシベリア派兵期の戦争観が払しょくされ〈どうか憎むことのできない敵を殺さないでいゝやうに早くこの世界がなりますやうに〉という戦争否定の観念に到達したのは、前回(88回)において述べたように、家出して上京した賢治がガリ版刷りの小さな出版社でガリ切りをしながら低賃金(一ページのガリ切り20銭)で働いたこと、図書館通いして文学書、日刊新聞閲覧によって政治や国際情勢に目を向けたことにあったと思われる。

  とりわけシベリア派兵や原敞政友会政権に批判的な各新聞の論調や労働・農民運動、婦人運動の動きに触れた記事により時代の新風を肌で感じ取ったのではないだろうか。

  また賢治がめざす童話のジャンルでは北国出身の作家小川未明のヒューマニティーに満ちた童話にうたれたのではなかろうか。だが未明のように戦争の根源を〈何かの利益問題〉に還元する視点をもたず〈あゝ、マヂエル様〉と北斗七星に平和を祈ることに視点に還元する賢治の戦争観はヒューマニチックではあるが、やはり戦争の根源を法制とする観念のシッポを断ち切ってはいないのです。それは熱心な法華経信者賢治の限界なのかもしれません。


 ■小川未明童話「野薔薇」より抜粋

  やがて冬が去って、また春となりました。ちょうどそのころ、この二つの国は、なにかの利益問題から、戦争を始めました。そうしますと、これまで毎日、仲むつまじく、暮らしていた二人は、敵、味方の間柄になったのです。それがいかにも不思議なことに思われました。
「さあ、おまえさんと私は今日から敵(かたき)どうしになったのだ。私はこんなに老いぼれていても少佐だから、私の首を持ってゆけば、あなたは出世ができる。だから私を殺してください」と老人は言いました。

  これを聞くと、青年はあきれた顔をして、
「なにをいわれますか。どうして私とあなたは敵どうしでしょう。私の敵は、ほかになければなりません。戦争はずっと北の方で開かれています。私は、そこへいって戦います。」と、青年はいい残して、去ってしまいました。

  国境には、ただ一人老人だけが残されました。青年のいなくなった日から、老人は、茫然として日を送りました。(以下省略)

本ページ掲載内容の無断転載を禁じます
ホームページに関するお問い合わせ、取材に関する情報は
E-Mail:hensyuu@morioka-times.com
盛岡タイムス宛てにお願いします