2009年 1月 4日 (日) 

       

■  〈賢治の盛岡高農時代〉1 小川達雄 入学宣誓式1

    はじめに

   もう八年ほど前になるが、わたしは本紙に『宮沢賢治の中学生時代』を連載していたことがある。それが終了した後、「次は盛岡高農時代ですか」とお尋ねにあずかることはあったものの、その分野には入ることが出来ないまま、過ごして来た。

  というのは、さて高農時代になると、すでに公刊された印刷物以外、賢治についてはあまり知るところが少なかったからである。それに、わたしは盛岡高農に遠慮があった。なにせ理系はからきし不得手で、在学中よい学生では決してなかったから、高農で目をひらいた賢治を書くなど、やはり憚る気持ちのほうが先立った。

  しかしながら、わたしにも未練があり、その講義には懐かしい思いがあった。それで盛岡を訪れるたびに、かつての盛岡高農の構内(現岩手大学)を眺め、賢治の時代を偲ばずにはおられなかったのである。

  それは、賢治が寄宿舎の窓からいつも眺めていた林木園、賢治の農学科二部校舎跡(現在は築山と池)、賢治が遠望した二階建て畜舎跡、そして第一講堂があった高農本部(現在は農業教育資料館)等々で、行く場所は数多くあった。またその都度、大学図書館で当時の『校友会会報』や賢治愛用の専門書等を複写しているうちに、賢治の地道な歩みが、少しずつわかってくるような気がしたのである。

  賢治と同じ花城小学校出身の阿部孝は、中学生の頃の賢治について、こう記した。

  「理科的学科でも物理化学ははなはだか

  んばしくなかつた〜いつも試験前になつ

  て、数学の勉強でとほうにくれている彼

  の顔が、今でも私の目にうかんでくる。」

  (『ばら色の薔薇』)

  ところが高農時代の賢治について、二年時の副級長出村要三郎は、こう記している。

  「関先生から特別講義として、コロイド

  化学の講義があつた。原書を使用したの

  だが君だけはよく理解していた。君はす

  べての科目に優れていたので何時も級の

  トップであつた。君の神童的頭脳には及

  ばなかつた。」

(川原仁左衛門『宮沢賢治の周辺』)

  中学生時代からすれば、これは同じ人とは思われないほどの変貌ぶりである。しかし賢治のこうした変化は、むろん突然の出現ではなく、最初は進学を許されたよろこびから始まって受験へのひたむきな努力、そして寄宿舎では「たえず がんばる ことが口ぐせであつた」(川原『周辺』)という、生真面目な生活がもたらしたものにちがいない。

  賢治は、とくに教授陣への敬慕の念をつよく抱いていたが、その原書をじかに読み進む旺盛な知識欲、あるいは標本採取では岩片自身の驚きをキャッチする鋭敏な感覚が、しだいに賢治を、一個の専門家(同時に詩人)に育てあげていったのであろう。

  このあとは、初めて賢治の高農時代に接する気持ちで、あらためてその足跡をたしかめてゆくこととしたい。

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