2009年 1月 10日 (土) 

       

■ 〈賢治の置土産〜七つ森から溶岩流まで〉90 岡澤敏男

 ■盛岡工兵隊のシベリア派遣

  賢治にとってシベリア派兵問題は、単なる一過性の事件でなかったように見受けられます。それは徴兵検査と向き合った時期の「アザリア」のエッセーおよび父への書簡に表明された思念、童話「烏の北斗七星」の不戦の祈祷(きとう)、そして日本のシベリア派兵の欺瞞(ぎまん)を衝いた童話「氷河鼠の毛皮」のカリカチュアに、この事件に対する賢治の精神的痕跡をたどることができるのです。

  それぞれの発想が派兵前夜(大正7年1月〜4月)、盛岡工兵隊シベリア派遣(大正10年12月)、シベリア撤兵完了(大正11年10月)の時期と対応しています。

  すでにワシントン会議における海軍軍縮と「烏の北斗七星」の密接な関係を指摘していますが、もう一つの側面にシベリア派兵問題がからんでいるようです。大正7年に始まったロシア革命に対する干渉戦争は、9年には連合国軍やアメリカが干渉戦争が無駄であることを悟り撤兵しますが、北満やシベリアの利権を確保したい日本だけが単独駐留をつづけたのです。

  そのなかで駐留部隊の一部の帰還にともない弘前第八師団が交代動員されることが10年12月4日ころ決まり盛岡工兵第八大隊第一中隊も派遣されることになりました。地元の新聞には毎日その動向を子細に伝え、出発日程は盛岡駅を27日午後12時5分発下りにて秋田に向けて出発し、翌日船川港よりウラジオに向けて出航するという記事もみられます。

  賢治は12月3日に稗貫郡立稗貫農学校教諭となったばかりでした。盛岡在住時代には北上川で訓練している工兵隊の兵士たちをよく見掛けたものだったから、シベリアに派遣される新聞記事に関心を寄せたのでしょう。

  12月28日の「岩手毎日新聞」は〈雪のシベリアへ/盛岡工兵隊の鹿島立〉の見出しで「召集令が発せられて後五日にして全部入隊終つた工兵第八大隊第一中隊今年帰休兵は去る二十七日を以て二年兵に合して完全なる一個中隊を編成し昨二十七日いよいよシベリアに向け出発した、岩手颪の吹き荒ぶ観武ケ原頭で身肝を練った百八十名はいよいよあの身を切る寒風の鳴るシベリアの広野に向うのである。曇りがちな師走の空は粉雪を降らし盛岡駅構内は出動兵見送りの人々で殆ど埋められ…」と報じています。

  賢治は、国会にシベリア撤収論があり、新聞界や労働団体に撤兵をうながす主張が叫ばれており、ワシントン会議において日本のシベリア単独駐留を批判する論調のあることを知っていたので、撤兵はもはや時間の問題と判断していたのでしょう。したがって仰々しく報道される〈盛岡工兵隊の鹿島立〉の記事に空しさを感じるとともに、兵士たちが革命軍とトラブれば無残に相手を殺し自分もまた犬死する危険に遭遇しかねないのを恐れて「あゝ、マヂエル様、どうか憎むことのできない敵を殺さないでいゝやうに早く世界がなりますやうに」と烏の少佐に〈不戦の祈祷〉を捧げさせたのでしょう。賢治は2年後にシベリア派兵の真の狙いに気づいて童話「氷河鼠の毛皮」のモチーフとしました。

  この童話の冒頭にある12月26日夜8時ベーリング行列車がイーハトヴを発つ情景は、明らかに〈盛岡工兵隊の鹿島立〉の記事がアレンジされているものと見受けられます。

 ■童話「氷河鼠の毛皮」より抜粋

  十二月の二十六日の夜八時ベーリング行の列車に乗ってイーハトヴを発つた人たちが、どんな眼にあつたかきつとどなたも知りたいでせう。これはそのおはなしです。

    ×

  ぜんたい十二月の二十六日はイーハトヴはひどい吹雪ででした。町の空や通りはまるつきり白だか水色だか変にばさばさした雪の粉でいつぱい、風はひつきりなしに電線や枯れたポプラを鳴らし、鴉なども半分凍つたやうになつてふらふら空を流されて行きました。(中略)ところがそんなひどい吹雪でも依るの八時になつて停車場に行つて見ますと暖炉の火は愉快に赤く燃えあがり、ベーリング行の最大急行に乗る人たちはもうその前にまつ黒に立つてゐました。

  何せ北極のぢき近くまで行くのですからみんなはすつかり用意してゐました。着物はまるで厚い壁のくらゐ着込み、馬油を塗つてみんなほうほうしてゐました。


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