2009年 1月 14日 (水)

       

■  〈都市の鼓動〉24 藁谷収 公園に残された2つの台座

 盛岡市内に、今は彫刻が外され、残された二つの台座がひっそりと建っているのをご存知でしょうか。

  一つは市民の憩いの桜の名所高松の池西側の神庭山にあります。木立の中の人気もない場に、3メートル近い高さで静かに建っています。この台座の上にはかつて大きなブロンズ彫刻が建っていました。

     
  盛岡城跡公園の本丸跡にある南部中尉像の台座  
 
横川省三の像があった高松の池西側の神庭山にある台座
 
  盛岡城跡公園の本丸跡にある南部中尉像の台座  
 
盛岡城跡公園の本丸跡にある南部中尉像の台座
 
  その人は1865年、盛岡生まれの横川省三。父は盛岡藩士でした。新聞記者、千島探検の特派員、日清戦争従軍記者。その後大陸において謀報活動、日露戦争時に満州鉄道爆破を図るがロシア軍に捕えられ、ハルピン郊外で銃殺されました。

  彫刻は昭和7年に盛岡市が建立しました。制作者は近代彫刻史に名を連ねる盛岡出身の堀江尚志(岩手県立美術館収蔵作家)、鋳造は名工高橋萬治。その11年後の昭和18年、第2次世界大戦の金属供出のため撤去。石こう原型は市内報恩寺に保管されています。

  もう一つは盛岡城跡公園、いわゆる本丸跡に建つクラシック調(ルネッサンス様式)の堂々とした台座。これには南部家42代南部利祥公の騎馬像が凛(りん)として建っていました。

  南部利祥は日露戦争に従軍し明治38年満州井口嶺において戦死。維新において朝敵の立場に甘んじた南部藩、再興の思いは熱く、五千数百名の賛同者により、明治41年建立。利祥公の制作は当時帝室技芸員、東京近代美術館に代表作「湯あみ」がある彫刻家新海竹太郎。馬体は後藤貞行。鋳造久野留之助。

  この像も昭和19年、金属供出のため撤去に至り、人体原型は桜山神社、馬体の一部は報恩寺に保管されている。(以上出典は盛岡市不来方城跡公園掲示板、盛岡四百年下巻・郷土文化研究会より)

  盛岡のブランド、啄木、賢治と誰もが思い描く。街景観もこの偉人を背景に盛岡らしさとして存在している。しかし、歴史的に考えればこの二つの台座に関わった人々こそ盛岡の街造りに大きな足跡を残していたはず。この主人をなくした台座をどのように考えましょう。

  どこの街にも良くある話で、ましてや戦争に関わった出来事であれば、表舞台から退場し忘れ去られていく軌跡をたどる。しかし、これらの台座はそこにあります。石を彫る人間としてみれば、この台座はどちらも盛岡地元の花こう岩、特に利祥公の台座は当時の加工技術の最高峰であることは間違いありません。切削、研磨、組み立て全て手仕事の優れた技術を読み取る事ができます。大切な盛岡の遺産なのです。

  この台座をめぐって、どれだけの議論が繰り広げられたかは、計り知れません。再興、撤去、再利用など、さまざまな思いが交わされたことと思います。どの選択肢をとっても、違和感そして不安になってしまう。このままで良いというのが、多くの意見を表現しているのでしょう。

  欧米の記念碑等を訪ねれば、権力の上書き的歴史の中で、彫刻がすげ替えられることはあまり珍しいことではなく、街角にはさまざまな人物が建っています。しかし、それらは景観的にもきちんとした役割を果たしながら、人々に愛されている。彫刻がない台座だけの記念碑を見ることは滅多にない。記念碑はその意味合いを超え、憩いの場として存在しているようにも感じます。

  我が街盛岡の二つの台座、拙速に結論は出ないことは言うまでもありませんが、新たな景観を考える扉を開けるきっかけになる可能性があるようにも思います。訪ねてみてください。
(岩手大学教授)

本ページ掲載内容の無断転載を禁じます
ホームページに関するお問い合わせ、取材に関する情報は
E-Mail:hensyuu@morioka-times.com
盛岡タイムス宛てにお願いします