2009年 1月 17日 (土)

       

■ 〈宮沢賢治の盛岡高農時代〉4 小川達雄 入学宣誓式4

     三、教浄寺

  賢治は受験勉強の仕上げのために、入試直前の一月、盛岡市北山の教浄寺に下宿した−これは広く知られたことであるが、花巻の親元を離れて、賢治はどうして新たに、下宿住まいなどを始めたのであろうか。

  わたしはここのところに、いかにも賢治らしさが現れている、と思う。賢治は盛岡高農の受験に向かって、自分としてはできるだけの、あらん限りの力をふり絞りたい、と願ったのではあるまいか。そこには、合格とか不合格などの問題をはるかに越えた、勉強への一途な打ち込みを認めることができる。

  友人の阿部孝、沢田藤一郎は最難関の第一高等学校に志願して、みごと合格を果していた(卒業式総代の金田一他人も同校独法に、また久慈学も仏文に合格)。

  〔友だちの 入学試験ちかからん〕

  去年こう歌い、ひとりかなしく山百合の根を掘っていた賢治は、いまやその友人たちと肩を並べて学んでいく、高揚された意気込みにあふれていたはずである。

  賢治が教浄寺までやって来たのは、なにも〔合格〕といった、そんな次元で来たのではなかった。というのは、賢治が志望した農科二部はつい二年前の新設で、例年、五倍強の志願者が集まる農科一部とは違い、この時は比較的入りやすい学科である。

  その合格ラインは、賢治の卒業時の成績、八十八人中六十番(『新校本全集』参照)ではまず無理であったものの、四年時の九十人中四十二番、あるいは三年時の一〇二人中四十番、というレベルであったならば、だいたい、合格を期待することができた。げんに賢治と同級の一人は、卒業時に賢治より六、七番上のあたりで、しっかり、農科二部に合格していたのである。

  賢治が、たんに合格を願っていたのであれば、親元で地道に、不得手な数学と物理・化学だけを勉強していればよかった。しかし賢治は、「受験準備」のメモに「青空、リンゴ」と記したように、突き抜けた青空、あるいは詩「青森挽歌」にいう、銀河宇宙まで広がるリンゴのイメージのとおりに、自分はどこまで努力できるのか、挑戦してみたかったのであろうと思う。

  その大正四年一月、同じく教浄寺に下宿していた師範生・山蔭裕によれば、賢治は本堂の屏風をまわした中で勉強した(関登久也『宮沢賢治物語』)。屏風の上から山蔭青年がお菓子を渡すと、賢治は上を向き、両手を高くあげてニッコリ笑い、礼をいって受け取るならわしであったという。

  その後のことになるが、花巻農学校の生徒・小原忠は、『春と修羅』が学校に届けられた時、賢治は本を高く持ち、廊下をはね上って喜んでいたという(「先生と私」『宮沢賢治研究資料集成J』)

  この〔両手を高くあげて〕ということ。ごくふつうの動作であるが、そこには、歓喜の思いで一杯の賢治があらわれている。教浄寺の明け暮れは、このように、充実した日々が続いたのであろうと思う。

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