2009年 1月 17日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〜七つ森から溶岩流まで〉91 岡澤敏男

 ■派兵へのユーモラスなパロディ

  童話「氷河鼠の毛皮」は大正12年4月15日付「岩手毎日新聞」に発表されたものでした。それは第3面の7段いっぱいに〈童話「氷河鼠の毛皮」宮澤賢治〉の見出しで掲載されているのです。

  この童話の起稿時期は不明だが、たぶん新聞へ発表したころなのでしょう。盛岡工兵隊がサガレン(北樺太)に交代出動する噂が流れているころでした。

  〈無名の師(すい)〉と指弾されるシベリア出兵のの歴史は大正11年10月に完了したシベリア撤兵までの4年間に、参加した将兵が約24万人、戦死者約5千人、負傷者約2600人、そして戦費は約10億円にも上がり、意図したシベリアの利権どころかシベリア住民の敵意と列国の不信を買い軍部にとって不名誉な記録だったから、戦前はタブー視され新聞にも伏せられていたので、賢治とて知るよしもなかったのでしょう。

  しかし、大正9年2月から5月にかけて発生したニコライエスク事件(尼港事件)については6月以降の新聞に公表されています。

  これは3月初めころに尼港を守備する400名余の日本軍が革命軍のパルチザンによって奇襲攻略され生き残った守備隊将兵と在留邦人122名は降伏して投獄されたが、5月下旬に日本軍が黒竜江を下江して来るとの報せに狼狽したニコライエスクのパルチザンが、投獄されていた反革命派のロシア人とともに日本人捕虜全員を虐殺し尼港を焼き払って逃亡する悲惨な事件だったのです。

  この「尼港虐殺事件」はシベリア派兵を正当化し、革命軍の残虐非道なることを宣伝するため軍部も大々的に報道をしました。

  6月7日の新聞に「ニコライエスク在留邦人生存者なし」(海軍省公報)、「尼港守備隊全滅」(陸軍省公表)、「尼港海軍電信隊全滅」(海軍省公表)とあり、13日の「東京朝日新聞」は「血の海、屍の山を踏んで、大虐殺の尼港を実査す」のタイトルで特派員の生々しい見聞レポートを掲載しました。

  国民は衝撃を受け、各地に憤激の叫びが起こり、6月の国会で原敬内閣は責任を糾明され、原首相は「ニコライエスク事件」に対応して保障占領の名目で北樺太へ出兵を決断し、その第一陣が7月3日の派遣だった。

  そして3年後の大正12年4月6日の「岩手毎日新聞」に〈工兵大隊樺太へ交代か〉のという記事が報じられたのです。

  それは「サガレン守備隊交代について…本年は工兵第十三大隊(新潟)と交代して盛岡工兵第八大隊の幾部が派遣せらるる様其筋の内定があった」という内容です。

  盛岡工兵第八大隊の第一中隊は2年前の大正10年12月に、シベリアに交代派遣され昨年の秋にその中隊が帰還したばかりでした。

  こうした事態をふまえてみれば、童話「氷河鼠の毛皮」の構想は徴兵検査にからむ大正7年から盛岡工兵隊のサハリン派遣に至る時空から呼びかけられたもので、なかでも大正9年に衝撃を受けた「尼港事件」が中核をなしシベリア派兵の本質に迫っているのです。

  すなわちロシア革命の混乱から邦人を保護する名目で軍隊をシベリアに派兵したが、シベリアの人民は日本軍を憎むべき侵略者とみなし、パルチザンに襲撃させた「尼港事件」だったと認識したのです。

  賢治はそれをパロディ化し、900匹の黒狐を収奪しようとする氷河鼠の毛皮を着た紳士タイチ(日本軍)とそれを阻止する白熊のような赤ひげ(パルチザン)をからませユーモラスなドラマに仕立てたのが童話「氷河鼠の毛皮」でした。

 ■童話「氷河鼠の毛皮」より抜粋

『何せ向ふは寒いだらうね。』
『いや、それはもう当然です。いくら寒いと言つてもこつちのは相対的ですがなあ、あつちはもう絶対です。寒さがちがひます。』
『どうだらう、わしの防寒の設備は大丈夫だらうか。』『どれ位ご支度なさいました。』
『さあ、まあイーハトヴの冬の着物の上に、ラツコ裏の内外套ね、海狸(びばあ)の中外套ね、黒狐表裏の外外套ね。』
『大丈夫でせう。ずゐぶんいゝお支度です。』
『それから氷河鼠の頚のとこの毛皮だけでこさへた上着ね。』
『大丈夫です。しかし氷河鼠の頚のとこの毛皮はぜい沢ですな。』
『四百五十疋分だ。どうだらう。こんなとこで大丈夫だらうか。』
『大丈夫です。』
『わしわね、主に黒狐をとつて来るつもりなんだ。黒狐の毛皮九百枚持つて来てみせるといふかけをしたんだ。』

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