2009年 1月 18日 (日)

       

■ 〈胡堂の父からの手紙〉199 八重嶋勲 彦部小学校の事柄は面白くなってきた

 ■263はがき 明治41年4月10日付

宛 東京市麹町区飯田町四丁目三十一日
                松館 
発 岩手縣紫波郡彦部村
前畧請求之件來ル十二日頃ナラデハ用弁ナラス。目下ノ状体報セヨ
   四月十日  岩手縣紫波郡彦部村
             野村長四郎
             ヒズメヨリ
 
  【解説】「前略。請求の件きたる12日頃にならないと用弁にならない。目下の状態を知らせよ」という内容。
  長一の送金の請求に対しての金策が12日ころになるという知らせ。目下の病気の状態を聞くことを忘れない。
 
  ■264 半紙 明治41年4月13日付

宛 東京市麹町区飯田町四丁目三十一日
                松館 
発 岩手縣紫波郡彦部村
前畧病気モ日増快方ニ趣キ候由大慶候、当方無事ナリ安神相成度候、
金員請求ニ付此間毎日ノ様ニ日詰町ニテ金員ヲ求メ候得共、何レモ用弁ニ不相成、自家ニ賣却スヘキ米穀モ無之、殆ント困リ居候、当月ノ十五日より十九日迄ニ授業料送納セサレバ、又候停学ニ相成候、□実ニ当惑ニ候、今日暮方佐比内村ノ叔父様達ニ頼ムヨリ外ニ途無之候、
次ニ、
祖母ハ此頃大ニ衰弱シテ最早余命無之ルベシ、今朝ノ如キハ稍ヤ人知不詳ニ相成、畑中、上山、ミキ、傳助等ヲ集メ、種々手ヲ尽シ、頭部冷水ニテヒヤシタルニ八時頃ニ回復シ、食事モ為致候得共、一週間前ノ半食タニモ六ヶ敷、自分テ食事スルコトモ不出来様ニ相成候、出来得ルモノトセハ六月来長一帰宅スル迄ト申含メ居、且ツ待居ル様ナリ、
柏屋の花子一件ハ世間何ノ評モ無之候得共、大方ノ人々夫婦之様ニ覚ヘ(エ)、サノミ怪敷評スルモ無之候、仮令柏屋ノ家内カ不承諾テアリテモ、花子シ(ス)ラ慥カナルトキハ何ノ差閊モナカルベシ、民法上女廿五才以上男三十才以上ナルトキハ親家族ノ同意ノ有無ニ不拘、婚姻スルコト出来得ルモノニシテ敢テ同意ヲ要セス、乍併出来得ル限リハ同意ヲ得ル方可然、当夏帰宅ノ上花子ヨリ直接姉様ニ哀願セシナラ必ラス出来ル事ナラン、柏屋ニ於テモ肺病ナラスト見止メ(認メ)或ハ全ク全快セシト認メタル場合ハ敢テ承諾セザル筈モナカルベシ、此事ハ何分心長ク相談スル方可然候、
次ニ、
彦部学校ノ事柄ハ面白ク相成候、近頃教員ノ変動アリ、似里ハ山屋学校ニ赴任、梅木ツキ(七日)頓テ山屋学校轉任、彦部学校ヘハ山屋学校ヨリ、赤石村ノ長谷川兵次郎(十二日)着任、星山学校ノ小山教員ハ古館学校ニ(十七日)、星山学校ヘハ古館ノ駒ケ嶺高次(十七日)、交換ニ相成、星山ノ佐藤ツルハ解職ニ相成、八重島ハ(十七日)、田畑ハ(十四日)増俸ナリタリ、佐藤長四郎、佐藤善次郎、毎日学校ニ詰掛ケ教員エツメニハ閉口ノ次第ナリ、然シ他ニ持出シ騒ク様ノ事ハ無之候、八重島ハ折角六月ヲ待ツ(チ)、長一ノ長帰郷ノ上ハ改マル事ト話シ居候、
先達テノ村會ノトキ迂生ノ即チ村長ノ報酬ヲ半額トナシ書記三名ヲ弐名セシハ郡長ヨリ不当決議ト認メラレ、再議ヲ命シラレ再議ニ付セシモ改メス、目下郡参事會ニ申請中ナリ、近キ日ニ回復セシコトナラン、
今回五、六年生徒収容スル準備ノ為メ村長カ発案スルニ当二月頃当分星山、彦部、学校近隣ヲ借家スルコト提出シテ否決シ、次ニ両学校ヲ彦部中央即チ大巻ニ引移シ一学舎トナシ、高等併置ノ見込ヲ以テ大々的改築ヲ加ヘルコトヲ提出スルモ否決セリ、不止得星山学校ハ小修繕ニテ二ヶ年間、間ニ合彦部学校ハ到底些少ノ手入ニテ五、六収容スルコト不出来ルカ故ニ一段平屋十間・五間ヲ新築スルコトニ学務委員會ニ同意ヲ得テ村會ニ提出セリ、是レカ目下設計ノ為メ流會ト相成取調中ナリ、
  此期ヲ利用シテ彦部ニ高等併置セント スル見込ニテ彦部方面ハ二階造ヲ希望シ、木材寄付募集中ナル由、応募澤山アリ、日詰高等モ最早赤石、長岡、赤澤分離申込、且ツ右各村準備中ナルカ故ニ、佐藤善次郎ヲ初メ其他彦部議員ハ四十三年ヨリ彦部学校ニ高等併置セントスルノ意気込ナリ、素ヨリ村長トシテ種々方々否決セシ以上ナレバ、時局彦部学校擴張スルコトヲ提出スル見込、且ツ種々ノ感情ヨリ逆(虐)待同様セラルゝ上ハ彦部ニ同意シテ此一件ヲ貫徹セント計画シツゝアル故、彦部村大巻半分村長ヲ非常ニ頼ミ、村會ノ折ニハ、近谷、小野、阿部定吉ヲ憎ミ傍聴スルモノ数人アリ、
  此学校増築ヲ拒ムハ近谷、小野、阿部等カ他ノ議員ヲ語ラヘ(ヒ)都合六名飽迄拒ミ、是迄ノ如ク、日詰町ニ組合継続セントス故ニ、彦部ニ二階造リヲ建築スルトキハ、四十三年ニ高等併置サルゝヲ慮リ(レ)強情張スルナリ、彼等是迄野上ノ頭領トシテ村長ヲ逆(虐)待セントセシニ却テ野上、村長ト意志通、梢ヤ過半ノ議員ヲ従ヒ(ヘ)彦部全体大巻梢ヤ半分應援スルハ実ニ面白ク変動セリ、
或ハ村長カ彦部学校ノミ擴張シ、彦部学校ニノミ高等併置スルハ偏頗ナリト云フモノ有之哉モ難計候得共、村會即チ彼レラカ先ニ村長ノ發案ヲ否決セシ為メ止ムナク慈(茲)ニ至リタルモノニシテ郡視学モ同意シ、彼等誹(非)難スルニ途ナシ、実ニ面白ク相成候、
此分ニテハ彦部学校全フセントスルニハ、明年四月村長野村改選ノトキ継続再選セシムルノ必要アリト彦部大巻一同ノ意気込ナリ、
H・I姦通騒ニテ辞職勧告セシ為メH派ハ村長ヲ一時誹(非)難セシモノ澤山アリタル様ナレ共今ニ至リ却テIヲ再ヒ役場採用スルノ不可ナルコトヲ称シ、彦部若者達ハ絶対的相拒ミ居リ候、併シ手前ハ郡参事會ニテ書記三名ト相成タル場合ハ之ヲナダメ採用スル見込ミナリ、
最初Hカ口出シニテ書記三人ヲ二人ト出シ(ス)ハ長谷川寿ヲ退カシメ、助役ノ阿部定吉ニ事務分掌セントセシ場合突然Iノ辞職トナリタルハ反テ長谷川ノ位置完全トナリ、H・Iカ姦通罪カ願下ケトナリタルモ、同人ヲ採用スル余地ナキニ至リタルハ止ムナキ次第ナリ、
次ニ、
当地方一般ニ、長一カ肺患不治症ト評判アリタルモノ如クナリ、全快ヲ信スルモノ絶テナキ様ナレ共、去月写真送付以来、人々其全治ノ速カナルニ驚キ居ル様子ナリ、
彦部学校ヨリ今ヤ大学生アリト郡長モ知リ、世間即赤澤、佐比内邊ニテモ評判アリ、八重島ノ如キハ其為メ幸福多大ナリト八重島自分(身)モ話シ居候、且ツ先達テ新今野郡長巡視ノ場合悉ク取調八重島ノ成功ナリト、其外彦部青年カ有意(為)人々澤山アリト賞言セリ、郡視学ノ話シニ八重島ノ留任、増俸ハ全ク此点ニアリ、青年ヲシテ、郡内模範タリト言ヘリ、
次ニ、
今回郡費ニテ日詰町ニ蚕業学校ヲ創立シ、(月手当三円)四月十五日ヨリ八月十五日迄十五才以上ノ高等卆程度ノモノ募集セリ、手前ニテ当年若者モ置カス、労働人ノ不足困シ居ルモ、耕次郎ハ折角希望故難点其意ニ任セ候、(六月中迄ハ朝夕農事へ手傅セシムルコト及ベシ日曜日モ休ム)
金配ノ出来サルハ大ニ閉口ナリ、定メテ養生ニモ困ルベシ、今ヨリ六日迄ノ間目下苦策中ナリ、去ル十日日詰町ニテ伊藤ヨリ借入ルコト相談ニ相成行タルニ、用弁ニ不相成、不止得葉書差立タル筈、兎ニ角、二、三日中ニ送金スベシ、右用事迄、早々
   四月十三日    野村(長四郎)
       野村長一殿
(上部に横書きあり) 
常ノ手紙ニ(御無差汰)トアルハ(御無沙汰)ニアラスヤ、
 

  【解説】「前略、病気も日増しに快方とのことで大慶である。当方も無事であるので安心せよ。
  金の請求につき、この間毎日のように日詰町で金策をしたが、いずれも用弁にならなかった。自家に売却する米穀もなく、ほどんど困っている。当月の15日より19日までに授業料送納しなければ、またぞろ停学になる。実に当惑している。今日暮れ方、佐比内村の叔父様たちに頼むより外に途がない。

  次に、

  祖母はこの頃大いに衰弱して最早余命がないようである。今朝のごときは、やや人知不詳になり、屋号畑中、屋号上山、ミキ、傳助らを集めて手を尽くし、頭部を冷水でひやしたところ、8時頃に回復し、食事もさせたけれども、1週間前の半食すらも難しかった。自分で食事することもできないようになってしまった。できるものなら、6月の長一が帰宅するまでと祖母に申し含めており、かつ、本人も待っているようである。

  柏屋の花子の一件は世間では、何の評もないが、大方の人々は夫婦のように覚え、あやしく評をする者がない。たとえ、柏屋の家族が不承諾であっても、花子がしっかりしていれば、何の差支えもないだろう。民法上、女25歳以上、男30歳以上であるときは、親、家族の同意の有無にかかわらず、婚姻することができるものであって、敢えて同意を要しない。しかしながら、できる限りは同意を得る方がよい。

  当夏に帰宅の上、花子から直接姉様に哀願したなら必らずできることであろう。柏屋においても肺病でないと認め、あるいは全く全快したと認めた場合は、敢えて承諾しないこともないであろう。このことは、何分心長く相談する方がよいだろう。

  次に、

  彦部学校の事柄は面白くなった。近頃教員の異動があった。似里は山屋学校に転任、梅木ツキ(7日)山屋学校に転任、彦部学校へは山屋学校より、赤石村の長谷川兵次郎(12日)着任、星山学校の小山教員は、古館学校に(17日)転任、星山学校へは古館学校の駒ケ嶺高次(17日)着任、と交換になった。星山学校の佐藤ツルは解職になった。八重嶋茂は(17日)、田畑は(14日)増俸になった。

  佐藤長四郎、佐藤善次郎が、毎日学校に詰め掛け、教員へ詰めているのには閉口している。しかし、他に行って騒ぐということはない。八重嶋茂は、折角、6月を待っている。長一の長い夏休みの帰郷の時には改まることと話している。

  先だっての村議会の時、私の、即ち村長の報酬を半額にして書記3名を2名に減らしたのは、郡長から不当決議と認められ、再議を命じられ、再議に付したが、改めず。目下、郡参事会に申請中である。近い日に回復することであろう。

  今回、5、6年の生徒を収容する準備のため、村長が発案した。2月頃であったが、当分、星山、彦部学校は、学校の近くを借家することを提案して否決され、次に両学校を彦部中央、即ち大巻に移して一学舎として、高等科を併設の見込みを以って大々的な改築をすることを提案したが否決となった。やむを得ず、星山学校は小修繕にして2カ年間、間に合わせ、彦部学校は、到底さ少の手入れでは、5、6年生を収容することができないため、平屋10間・5間の校舎を新築することに学務委員会の同意を得て、村議会に提案した。目下、これの設計のため、流会となり、今取り調べ中である。

  この機を利用して彦部に高等科を併設置する見込みで、彦部方面では、2階建てを希望し、木材の寄付を募集中であるとのことで応募たくさんある。日詰町の紫波尋常高等学校も、最早、赤石、長岡、赤沢が分離を申込み、かつ、右各村は準備中のために、佐藤善次郎をはじめその他彦部の議員は、明治43年から彦部学校に高等科を併設しようと意気込んでいる。

  もとより村長として、種々、方々、否決された以上は、彦部学校を拡張することを提案する見込みであり、かつ、種々の感情から虐待同様にされる上は、彦部に同意して、この1件を貫徹しようと計画しつつある。彦部村大巻の半分は、村長を非常に頼み、村議会の折には、近谷、小野、阿部定吉を憎み、傍聴する者が数人ある。

  この学校増築を拒むのは近谷、小野、阿部らが他の議員と語らい、都合6名があくまで拒み、これまでのごとく、日詰町に町村の組合立で継続しようとするために、彦部に2階建てを建築する時に、明治43年に高等科が併設されることをおそれ、強情張りするのである。

  かれ等ら、これまで屋号野上の頭領として、村長を逆(虐待)待しようとしたが、かえって、屋号野上、村長と意志が通じ、やや過半数の議員を従え、彦部全体、大巻やや半分応援するは、実に面白く変動した。

  あるいは、村長が彦部学校のみ拡張し、彦部学校にのみ高等科を併設するは偏頗であるという者があるかもしれないが、村議会、即ち彼らが、先に村長の発案を否決したため、やむなくここに至ったものであって、郡視学も同意している。これで、かれらは非難する途がなくなり、実に面白くなった。

  この分では、彦部学校拡張改築、高等科併設を全うしようとするには、明年4月村長改選の選挙で、野村を継続再選の必要があると、彦部、大巻一同の意気込みである。

  H・I姦通騒ぎで辞職勧告したため、H派は、村長を一時非難したものがたくさんあったようであるが、ここにいたって、H・Iを再び役場に採用することはできないと、彦部の若者たちは絶対的に拒んでいる。しかし、手前は郡参事会で、書記3名となった場合はこれをなだめて採用する見込みである。

  最初H・Kが口出して書記3人を2人とするよう提案したのは、書記長谷川寿を退かせ、助役の阿部定吉にその事務を分掌させようとしたのであった。その時に、突然H・Kの息子H・Iが辞職となったのは、かえって長谷川寿の位置を確かなものとした。

  H・Iの姦通罪が願下げとなっても、同人を採用する余地がないようになったのは、やむを得ない次第である。

  次に、

  当地方一般に、長一が肺患不治症と評判があり、全快を信ずる者がないようであるが、昨月写真の送付以来、人々はその全治の速かなのに驚いているようである。

  彦部学校出身に東京帝国大学生ありと郡長も知り、世間、即ち赤沢村、佐比内村辺でも評判である。八重嶋茂の如きはそのため、幸福多大であると八重嶋茂自身も話していた。かつ、先だって新今野郡長巡視の際にことごとく取り調ベた、八重嶋茂の成功である。その外彦部青年の有為な人々がたくさんあると誉めて話した。郡視学の話には、八重嶋茂の留任、増俸は全くこの点にあり、青年をして郡内の模範であるといった。

  次に、

  今回郡費で日詰町に蚕業学校を創立し、(月手当3円)4月15日から8月15日まで15歳以上の高等科卒程度の者を募集した。わが家では、当年は若者もおかず、労働人の不足で困っているが、耕次郎は、折角希望するので、難しい点があるが、その意に任せた。(6月中までは朝夕農事を手伝い、日曜日の休みも手伝う。)

  金策のできないのには大いに閉口である。きっと、養生にも困るだろう。今より6日までの間、目下、苦策中である。去る10日、日詰町で伊藤より借り入れることを相談したが、結局用弁にならなかった。やむを得ず葉書を差し立てたのであった。兎に角、2、3日中に送金しよう。右用事まで。早々
(上部に横書きあり)

  常の手紙に(御無差汰)とあるのは(御無沙汰)にあらずや。」という内容。

  彦部尋常小学校を拡張改築し、そこに尋常高等科を併設しようというのである。これを巡って、村議会の論議、駆け引きが激しく行われたことが分かる。

  私が、昭和20年4月入学した彦部国民学校(高等科併設)が、その時建築された校舎であったのである。結局総2階建ての校舎であった。こういう歴史を見るとき感慨深いものがあり、あの校舎が懐かしく目裏によみがえる。

(県歌人クラブ副会長兼事務局長)

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