2009年 1月 24日 (土)

       

■ 〈宮沢賢治の盛岡高農時代〉6 小川達雄 入学宣誓式6

    四、氏名点呼

  新校本全集によれば、賢治は大正四年二月二十六日、入学願書用の写真を撮影した。

  その日はめずらしく雪の止んだ日であったから、待ちかねていた賢治は、さっそく町に出たのであろう。その日の最低気温はマイナス十・一度、午後になっても気温は零度までしか上がらなかった。写真の出来上がりは一週間後で、願書の締切りは三月十日。

  賢治は農学第二部に出願したが、これはそもそも受験が許された頃から、しぜんに決まっていたと思われる。というのは、子供の頃から岩石には非常な興味を示していた賢治は、家族から「石っこ賢さん」と呼ばれていた。親友の阿部孝はこういう。

  −盛岡近在の山や丘で、賢治の金槌の洗
  礼を受けていない所はほとんどあるまい。
  中学一年であれだけ石に興味の持てる子
  供は、古今東西を通じて、あまり類がな
  いかもしれない─(『ばら色のばら』)

  その石に関する学科「鉱物及地質」は、一年生の時、農学二部で週二時間の配当である。しかし農学一部ではそれが二学期までのことで、どうしてか、三学期分は欠けていた。それは一年生の時だけの講義であったために、賢治は迷うことなく、志望を二部に決めたのであろう。それは在学中、とくに地質研究には熱心であったことからしても、ごくしぜんな選択といえた。

  農学二部の中心学科は、化学(なかんずく分析化学)にあったが、もともと大いなる天地とともに生き、その微妙な変化にも鋭敏に反応した賢治である。賢治は座右に大冊の片山正夫『化学本論』を置いて、熟読を繰り返したというが、これは農学二部を志願する時点での、化学への新しい決心を語るものでもあったろう。

  さて時は過ぎて三月二十七日、いよいよ盛岡高農入学試験の日がやって来た。最初のこの日は、午前八時から体格検査と平行して口頭試問の実施である。

  当時、盛岡高農の正門(現在の通用門)は上田与力小路の側に開けていた。入った正面は農学一部の校舎で、砂利道を左に進むと二棟の寄宿舎が見え、やがて高農の本館(現在の農業資料館)に達した。

  体格検査はその本館の二階講堂で行われ、口頭試問は本館一階の部屋での実施である。受験者にはまず氏名点呼があり、番号順によって、体格検査と口頭試問への振り分けが行われるのであったが 、その点呼は、賢治の順になった時、にわかにトラブルが生じてしまった。

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