2009年 2月 8日 (日)

       

■ 希代の力士「三太夫」とは 滝沢村で講演会「鵜飼の歴史学ぼう」

     
  鵜飼地区ゆかりの山上三太夫について講演する前川健一郎館長  
 
鵜飼地区ゆかりの山上三太夫について講演する前川健一郎館長
 
  自分たちが住む地域について学ぶ歴史講演会「鵜飼の歴史を学ぼう」が7日、滝沢村の村公民館大ホールで開かれた。講演会は地域の活性化のためにさまざまな取り組みを行っている鵜飼地域まちづくり推進委員会と地区の4自治会が共催。会場には地域住民ら約80人が集まり、地域の歴史について理解を深めた。

  滝沢ふるさと交流館の前川健一郎館長が「山上三太夫を中心とした鵜飼の歴史について」と題して講演。山上三太夫は延宝年間に江戸で活躍した南部家お抱えの力士で、当時日本一といわれた「富士の山」に勝ったことから、南部重信が「山の上」と命名したと伝えられるという。

  出生地については簗川、大迫、宮守など諸説あるが、鵜飼地区もその一つとされ、地元には三太夫の石碑も残っている。800キロあるという石碑は三太夫が諸葛川から背負ってきたものという伝説もある。

  講演ではさまざまな書物の記述から殿様の叱責(しっせき)を受けて処刑されたとされる三太夫の処刑の理由などを読み解いた。岩手郡誌、滝沢村誌、中野村誌など書物により違うが、藩公が乗ったかごを橋の欄干から川面に差し出したために張り付けに処されたという説が一般的。

  しかし、前川館長は「三太夫を哀れむ民心とそのような理不尽な対処に対する憤慨が最期の場面をドラマチックに演出することによって強烈に残す形になったのではないだろうか」と推測。実際は抱え力士としての身分を廃止し、強制的に引退させることで対外的な体裁を整えて生きていたが、大力士の引退を民衆は惜しみ、処刑という形で伝わったと考えられるという。

  前川館長は「希代まれなる力士を輩出したが、その最期が哀れだったので地域の方が石碑を建立していまだに大切にしている。その気持ちは素晴らしい。これからも隠れた名所として郷土の誇りにしてもらいたい」と話した。

  同日はアトラクションとして滝沢村さんさ踊り保存会が踊りを披露したほか、狐洞遺跡出土遺物、盛岡藩士上田家甲冑(かっちゅう)なども特別展示された。

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