2009年 2月 11日 (水)

       

■ 菊池如水さんに15歳の原点 満州鉄道、召集、敗戦

     
  冬の街角を描く菊池さん  
 
冬の街角を描く菊池さん
 
  指描きの画家菊池如水さん(87)=盛岡市西仙北2の2の30=が今年、米寿を迎える。ますます盛んな如水さんに青春時代の話を聞いた。持ち前の豪快さの中に寂しがりやの横顔をのぞかせる。旧満州での青少年期に画家としての原風景があった。力強くも繊細な指使いには、如水さんの波乱の人生が潜んでいる。盛岡市本宮のクリンゲンバウムで17日から28日まで、個展「藍と愛の米寿展」を開く。

  如水さんが県外や外国に絵を描きに出かけると、どんな人ともうち解ける。「ヨーロッパを歩いたが言葉を使わなくてよかった。問題は自分なりの笑顔を忘れないこと。わたしがスケッチブックを持っていれば、あちらはそれなりに解釈してくれる。そういう自信が付いたのは15歳で戦時中だった」と回想する。

  大陸では満州国時代の満鉄に勤務した。当時は日本人と満州人、中国人などが混在し、民族の壁を越えて成長せざるを得なかった。「日中戦争が昭和12年から始まって、その最中にわたしが行った。言葉も通じない。朝鮮、中国、白系ロシア人が働いている。いろんな言葉が入り交じっている。必要な買い物や仕事をする範囲で互いに言葉を覚えていく。そういうことが今のわたしの旅歩きの自信になっている」と話す。自ら原点を15歳にさかのぼる。

  満鉄に務めていた叔父の招きで大陸に渡った。「父が当時32円もの旅費を出してくれた。ひとりで盛岡駅から親せきに見送られ、郡山駅で乗り換えて新潟へ向かった。盛岡から上野まで16時間かかった時代。郡山駅に泊まって朝一番で新潟港に行った。船に乗ったら民間人はわたしひとりで、あとは満蒙開拓義勇軍。甲板に乗って下を見ると愛国婦人会が見送っている。わたしはひとりしょんぼりしていた」と、その心細さを思い出す。

  「下の方を何気なく見たら、波止場の物置小屋のはじっこに父親がいた。隠れて同じ列車に乗っていたんだ。汽笛が鳴った。いかりがガラガラ上がる。遠くだから分かりにくかったが格好で分かった。キセルでたばこを吸った格好を見ると親父だ。手を振ったらあっちも手を振ってやはり親父だった」。黙って見守っていた親心に今でも涙が出る。「それが生き別れ。戦争終わって帰ってきたら仏さま。だから15歳が原点だった」

  満鉄時代は有名な「あじあ号」に乗務して広野を走った。太平洋戦争の戦局が傾くと満鉄社員のまま関東軍に召集され、南方に転戦した。「終戦の日が満鉄解散の日。満鉄社員として軍隊に行っているので、退職は終戦のとき。わたしは南方に行っていたが、残っていた連中は終戦の間際にシベリアに連れていかれた。生死の境だった」と、まぶたの戦友を思い浮かべる。

  復員して岩手に帰り警察官を務めた。「出会いが人生。寂しいので写真と語り合っている。感情をメッセージにして写真のアルバムと語り合っている。今思えば、子供のころは寂しがりやだった。寂しがりやが15歳を契機に、自分でやらなければならないんだと決意した。それでこういう87歳になった」とにっこり。戦後は美術に目覚め、公私ともに出会う人との縁を大切にした。

  「本当は彫刻をやろうと思ったが、やはり空だ。空があれば自分の健康を守り、歩くことであちこちに行けば新しい出会いが出る。彫刻は動けなくなってから部屋でやればいい」と話し、自分の足で歩むことを忘れない。

  1981年に退職してからは画業に専念し、「屋根のないアトリエ画家」のニックネームで活躍する。絵の具が染みこんだ指先から、見果てぬ風景を描き出す。

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