2009年 2月 14日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〜七つ森から溶岩流まで〉95 岡澤敏男 ベーリング幻想

 ■ベーリング幻想

  賢治がベーリングに関心をもった時代的背景には、シベリア派兵↓尼港事件↓北樺太出兵、それに「海賊船大輝丸事件」という時局的な新聞報道に刺激されたことはもちろんのこと、さらに梅原猛氏のいう賢治の資質にひそむ縄文人の血が「北方への志向」をうながしたのかもしれない。

  そのベーリング発想とは、いうまでもなく太平洋の極北海域としてのベーリング海だったとみられます。

  この極北の海域に〈不思議な都ベーリング市〉を想起した賢治の根っこに、古代中国の思想とつながるものがあったと思われるのです。それは『五行大義』にみられるという「宗廟祭祀」の思想です。

  その「宗廟」は北方の極点があって分離した死者の魂魄(こんぱく)を合一する祭祀を行うという観念です。すなわち死者の魂気は天に上り神となり、魄気(体)は下降して鬼となって分離し成仏できないので、分離した神・鬼を収束成仏させるための宗廟だといいます。

  ちょうど恐山信仰に近いもので恐山を北方の極点とみなし、その宗廟が釜臥山菩提寺にあたるのです。

  賢治がベーリング市を死者祭祀の宗廟として想起するに至ったのは、大正11年11月27日に病死した最愛の妹トシの魂魄を収束させたい切ない祈願によるものでしょう。

  作品にベーリングなる語彙(ごい)が初出するのは、12年4月15日の「岩手毎日新聞」に発表した「氷河鼠の毛皮」によるもので、トシが死去した5か月後のことです。賢治はトシの魂気を岩手山麓で鋭く感受し、詩篇「風林」(12年6月3日)に表象しています。

  とし子とし子
  野原に来れば
  また風の中に立てば
  きつとおまへをおもひだす
  おまへはその巨きな木星
  のうへに居るのか
  さらに詩篇「白い鳥」(12年6月4日)でも、トシの魂気が強く賢治に迫っているのを知るのです。
  二疋の大きな白い鳥が
  鋭くかなしく啼きかはしながら
  しめつた朝の日光を飛んでゐる
  それはわたしのいもうとだ
  兄が来たのであんなにかなしく啼いてゐる

  賢治は白鳥となって悲しく啼くトシの魂気を追って7月末、青森〜北海道〜樺太へと旅立つのです。そして「青森挽歌」「オホーツク挽歌」にトシの魂気を何べんも何べんも愛恋をこめて表象するのです。
  あいつはこんなさびしい停車場を
  たつたひとりで通つていつたらうか
  どこへ行くともわからないその方向を
  どの種類の世界へはひるともしらないそのみちを
  たつたひとりでさびしくあるいて行つたらうか
  (「青森挽歌」8月1日)

  緑青は水平線までうららかに延び
  一きれのぞく天の青
  それらの二つの青いろは
  どちらもとし子のもつて
  ゐた特性だ
  わたくしが樺太のひとのない海岸を
  ひとり歩いたり疲れて睡つたりしてゐるとき
  とし子はあの青いところのはてにゐて
  なにをしてゐるのかわからない
  (「オホーツク挽歌」8月4日)

  賢治は、水平線のかなたの〈青いところのはて〉をトシの魂気が遠く去っていくのを見送りました。その最果てにはベーリング市がありトシの魂魄を収束する「宗廟」を幻想したのでしょう。賢治は砂浜に端座して合掌し、(ナモサダルマプフンダリカサスートラ)と法華経のお題目を一心に唱えたのでした。


 ■詩篇「噴火湾(ノクターン)」より抜粋

  駒ケ岳駒ケ岳
  暗い金属の雲をかぶつて立つてゐる
  そのまつくらな雲のなかに
  とし子がかくされてゐるのかもしれない
  ああ何べん理智が教へても
  私のさびしさはなほらない
  わたくしの感じないちがつた空間に
  いままでここにあつた現象がうつる
  それはあんまりさびしいことだ
    (そのさびしいものを死といふのだ)
  たとへそのちがつたきらびやかな空間で
  とし子がしづかにわらはうと
  わたくしのかなしみにいぢけた感情は
  どうしてもどこかにかくされたとし子をおもふ
            (一九二三、八、一一)

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