2009年 2月 20日 (金)

       

■ 〈杜陵随想〉伊能専太郎 「母はかなしい」

 08年、何かと話題になった小説「蟹工船」。その小林多喜二の命日は2月20日である(宮沢賢治の没年と同じ33年)。

  多喜二は拷問の場面を描写した小説「一九二八年三月十五日」を発表し、それが特高を刺激したといわれる。体験を書いたわけではなかったが、その「凄惨な拷問の描写は、読む者の目を閉じさせるもの」であった(「昭和史発掘」)。多喜二は結局報復のような同じむごい殺され方をした。29歳の息子の、まさに変わり果てた、すさまじい拷問の跡の残る遺体を、60歳の母親が引き取った。聖母マリアが息子の死体をひざに抱いて嘆き悲しむピエタを思わずにはいられない。

  後年、多喜二の母親の遺品の中にこんな紙切れが発見された。「あーまたこの二月の月かきた ほんとうにこの二月とゆ月か いやな月 こいをいパいに(声をいっぱいに)なきたい…(『文芸春秋』09年1月号)」。読み書きが不自由な母が手習いをし、死んだ息子を思い出して一生懸命書いたものと想像される。

  このたどたどしさは、野口英世の母を思い出させる。「おまイの。しせ(出世)にわ。みなたまけました。わたくしもよろこんでをりまする。(中略)みなほかいドに。いてしまいます。わたしも。こころぼそくありまする。ドかはやく。きてくだされ。(野口英世記念館)」

  息子の出世を喜びながらも、ひとりになってしまった寂しさを訴える母がそこにいる。

  野口英世にも小林多喜二にも父の存在が見えてこない。

  田中清玄(きよはる)は昭和期の実業家だが、30年に検挙され獄中で思想を変えた。女手一つで育ててくれた母が、獄中の自分をいさめるために腹をかき切って死んだからだった。 

  「戦没農民兵士の手紙」に旧江刺郡の佐藤源治さんの手紙が収録されている。そこには「死につくものの最後の叫びは何れも『お母さん』という一言です」とある。「天皇陛下万歳」ではない。手紙が検閲にかからなかったのは、終戦後のジャワ島戦犯刑務所独房からの手紙だったからである。故郷から多くの助命嘆願があったが死刑は執行された。

  「何でおれを生んだ」と暴力を振るわれる母。赤ん坊を殺す母、育児を放棄する母。「生みの母」がいるのだから、「生ませの父」がいるはずなのだが、ここでも父は見えてこない。賢治は「西ニ疲レタ母アレバ」と書いた。深沢七郎「楢山節考」では、母は息子の背に負われ山に捨てられねばならなかった。「子を負える埴輪(はにわ)のおんなあたたかしかくおろかにていのち生みつぐ」(山田あき)。母はかなしい。
(盛岡市本宮)

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