2009年 2月 21日 (土)

       

■ 文芸誌「明星」に集った県人 てがみ館で企画展

     
  石川啄木が明星の終刊をにおわせているはがき(複製)  
  石川啄木が明星の終刊をにおわせているはがき(複製)  
  盛岡中ノ橋通の盛岡てがみ館(古水一雄館長)で「文芸誌『明星』に集う人々の手紙〜与謝野鉄幹・晶子、啄木、岩手の歌人たち〜」が開かれている。6月15日まで。若き歌人、詩人を世に送り出した明星。本県出身者など14人の書簡、原稿から当時の文学界を垣間見る。肉筆原稿25点、複製資料など150点を展示している。

 文芸誌「明星」は1900年(明治33年)、与謝野鉄幹、晶子夫妻が中心となり創刊。全国から詩歌の投稿を集め、1908年(明治41年)11月に終刊するまで100号を発行した。

  本県からも多くの人が明星の文壇で活躍した。先陣を切ったのは金田一京助(1882〜1971)。盛岡中学時代から同人となり、1900年4月号に8首、明星2号には「松くらき畷(なわて)の夜みち妹とわがかざす袂に雪こぼれきぬ」が掲載された。

  その金田一から薫陶を受けたのは石川啄木(1886〜1912)。啄木は1902年(明治35年)、盛岡中学を退学。上京したその足で先輩、細越夏村(1884〜1929)の下宿先を訪ねた。同館では当時の啄木を懐古する細越の原稿を初公開している。

  「午後の三時頃に學校から小石川は小日向台町の下宿に帰って来た私は自分の部屋に入るなり敷居際に棒立ちになって仕舞った。(中略)啄木はと見れば流石にキマリ悪そうに肩をすぼめて不安げに微笑んで居た」と、上京したばかりの啄木の様子を克明に記している。

  渋谷の与謝野鉄幹家に出入りしていた細越は鉄幹に啄木を紹介する。

  啄木の作品が初めて明星で発表されたのは1902年(明治35年)の第三明星第5号。初め、「石川啄木」ではなく雅号「白蘋(はくひん)」で発表していたが、後に鉄幹が啄木の詩稿に感激し、雅号「啄木」で作品を発表したのがその名の始まりとなった。

  啄木とは違った関係から明星にかかわったのは盛岡の大信田金次郎(1887〜1928)。盛岡で啄木が文芸誌「小天地」を発行するという話を聞きつけると、資金援助を申し出て、自らも短歌7首を寄稿している。

  古水館長は「明星は啄木にとって自分の文学を発揮し広く認められた雑誌。あまり知られていないが、本県出身者も多く作品を投稿しかかわっていた」と解説している。

  午前9時から午後6時まで。入館料は一般200円、高校生100円、中学生以下および盛岡市内に住所がある65歳以上の人は無料。休館日は毎月第2火曜日。

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