2009年 2月 22日 (日)

       

■ 〈宮沢賢治の盛岡高農時代〉15 小川達雄 賢治の盛岡案内1

     一、全体コース

  賢治が盛岡高農に入って最初に出かけたのは、宮城県からやって来た高橋秀松のための盛岡案内である。

  秀松は賢治と同じ南寮一号室で、寝場所も隣り会っていた、と記してこう続けた。

  「賢さんは、盛岡中学出なので、入舎の
  最初の土曜日の午後自ら市内案内の役を
  買つて出た。第一に案内してくれたのは、
  田中の地蔵さんで、石川啄木の詩まで引
  用。次は高松の池、不来方城跡、天神山
  等であつた。その説明は明細を極めた。」
  (川原『周辺』)

  この「入舎の最初の土曜日」というのは、四月十日のことであろう。『新校本全集』では「次の一七日でもあり得る」としていたが、ここは気の早い賢治のことだから、十日と見て間違いはないように思う。

  今回は左に、この翌大正五年四月発行の地図(帝国陸地測量部、原図は二万五千分の一)をあげておくが、二人は図の左上、@の寄宿舎からまずBの地点、上田組町に出てくる。その途中のAは、大正六年に移って来る盛岡中学(盛岡一高)の校地で、この時は早春の広い田圃が見えるばかりであった。

  長い一本道の上田組町、Bの地点には現在、どっしりした県立中央病院が建っているが、その頃は北山まで、一望遙かな田園の連なりである。そういえばBから三戸町の角までの両側にも田圃が続き、その頃の盛岡は、中心部から少し外れると、どこでも田圃の中に家々が建っていたのであった。

  Cの真下は、三戸町の角から四ツ家に進んだ地点で、そこに田中の地蔵さんが鎮座していた。図の中央、上のところに「田中地蔵」とあるけれども、これは四年以前の場所であって、この地図にもいくつか、その種の異同があった。

  賢治たちはそこから高松の池に行き、再び田中地蔵さんから八日町の左端、四ツ家教会の前からDの盛岡中学へ。次いで隣の石割り桜を見てE、岩手公園に行き、その本丸の東端からFの天満宮を目にして、そこで最後に、二人は岩山入り口の天神様を目指したのであろうと思う。

  この日はおよそ、こうした行程であった。

本ページ掲載内容の無断転載を禁じます
ホームページに関するお問い合わせ、取材に関する情報は
E-Mail:hensyuu@morioka-times.com
盛岡タイムス宛てにお願いします