2009年 2月 28日 (土)

       

■ 〈宮沢賢治の盛岡高農時代〉16 小川達雄 賢治の盛岡案内2

    二、田中地蔵

  賢治の歩き方を、農学科一部の西村清助はこう記している。

  「足の運びもいと軽やかに、大げさに云
  うと少しとび上るようなバネのきいた歩
  き方の賢治。かすかに笑を含み真すぐ気
  をつけに近い姿勢で歩く、途中出合いが
  しらに『ヤア』と呼ぶと『ホウ』とやゝ
  とんきように尻上りの声がかえつてくる
  のであつた。」(川原『周辺』)

  賢治は相当な健脚であった。高農の寄宿舎から田中の地蔵さんまではおよそ一キロ足らず、賢治と高橋は十分ほどでやって来たのであろう。

  今回初めて気がついたが、大正期の各種名所案内をみると、田中地蔵はほとんど紹介されていなかった。書かれていたのはわずかに大正七年の『最新案内モリオカ』、そして全く書かれていないのは大正四年の『杜陵の三年』、大正十一年の『盛岡産業名勝名物案内』、大正十二年の『盛岡案内記』である。

  すると田中の地蔵さんは、名所としてはあまり有名ではなかった、ということになるが、賢治はそこを〔第一に案内してくれて、石川啄木の詩まで引用した〕と高橋はいう。これは仏教に親しみ、日記代わりの短歌を書いた賢治ならではの選択であろう。

  ここでは、『最新モリオカ』記載の「▼田中地蔵尊(盛岡駅より十三町)」をあげておく。

  「大智田中地蔵尊は、南部家二十八世山
  城守重直公の祈願にかゝり、もと市外な
  る名須川の田圃に御座ありしが、近年、
  市の北方四ツ家橋畔、胡桃樹下に遷座す。
  霊験あらたなるを以て、今尚信仰するも
  の多く、祈願者の小豆餅を供するもの常
  に絶ゆることなし。
   里謡『地蔵よ地蔵よ、何餅好きだ。小
     餅御好きだ小豆餅御好きだ。』」

  この「名須川の田圃」というのは、教浄寺門前の田圃のことで、「近年」というのは、明治から大正に変わった冬のことである。それは賢治が中学四年生の時で、あるいはその引っ越し、つまり「遷座」のようすを、賢治は目にしていたのかもしれない。

  当時は北山から流れてくる川(赤川)が、後に建った盲唖学校の脇から仁王小学校の裏をさざめいて、はるばる仁王小路まで達していた。その川と上田の道と交わる地点が、右にいう「四ツ家橋畔」であり、「胡桃樹」はその川の左岸に繁る一樹で、その下に、地蔵さんは露座のまま置かれていたのであった。

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