2009年 5月 2日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〜七つ森から溶岩流まで〉106 岡澤敏男 青柳教諭を送る

 ■文語詩未定稿「青柳教諭を送る」(先駆稿)
 
  秋雨にしとどにぬれて
  きよらかに頬痩せ青み
  師はいましこの草原を
  たゞひとりおくれ来ませり
 
  羊さへけふは群れゐず
  玉蜀黍つけし車も来ねば
  このみちの一すじ遠く
  雨はただ草をあらへり
 
  友なさは高くわらひそ
  愛しませるかの女を捨て
  おもはざる軍に行かん
  師のきみの頬のうれふるを
 
  南なる雨のけぶりに
  うす赤きシレージの塔
  かすかにもうすび出づるは
  この原もはやなかばなれ

 ■青柳教諭を送る

  賢治はもう一つのノート(「東京」ノート)にも略年譜を記録しているが、「文語詩篇」ノートの年譜の方がより詳しく回想されその最終が昭和5年で終わっており、このノートは昭和5年ころの使用と推定されている。

  賢治は昭和3年8月、肺浸潤によって発熱し約40日間苦しい病臥生活を送っている。「文語詩篇」ノートに〈一月(昭和4年) 肺炎〉とメモされ〈淋シク死シテ淋シク生レン〉と書いているように、死期を予感した賢治が盛岡中学校入学時(明治42年4月)から昭和5年8月〈病気全快〉までの出来事を回想し略年譜を記録したものです。

  記載されたメモは脳裏に浮ぶ数々の出来事の中から選ばれ、とりわけ印象深く刻まれた心像だったのでしょう。中学2年9月の欄に記録した〈楠ジョン 青柳先生 パンを食みくる〉のメモもまた強烈な印象から投影されているとみられます。

  それは青柳先生になついてパンを食べる楠ジョンなるゆえに嫌いな犬に親近感をおぼえた心象が描かれ、青柳先生に対する敬愛の隠喩がオーバーラップされている。

  その心情の共鳴音を〔痩せて青めるなが頬は〕(先駆稿「青柳教諭を送る」)という文語詩に聴くことができるのです。

  賢治の文語詩制作は昭和4年9月ころに始まるとされている。それは前年夏から病臥し「疾中」30篇の詩を書きつづった病床体験から、「生きることへの仕事」として文語詩制作を意識し、その新しい仕事のための計画表が「文語詩篇」ノートだったと小沢俊郎氏は推察します。

  このノートは〈文語詩題材〉を思い出しては年月に応じて書き込んだものともいう。そして「青柳教諭を送る」という題材は文語詩をつくり始めたころ「すぐに思い浮んだものの一つだった」という指摘もあるので〈楠ジョン 青柳先生 パンを食みくる〉の記録は単なる懐旧の逸話でなかったはずです。それほどに賢治の深層に刷り込まれている青柳先生と賢治はどういう関係にあったのか。

  青柳(亮)先生は鳥取県の出身で東京外語学校卒業とともに明治43年4月、21歳で盛岡中学校に英語科嘱託として赴任した。賢治が2年生になったばかりでした。

  しかし青柳亮は兵役一年志願のために同年11月に依願退職し去っているから、賢治が青柳先生に接する期間はわずか8か月に過ぎず、賢治が青柳先生と行動をともにしたのは資料的には9月の岩手登山の時だけとみられる。

  秋季皇霊祭(こうれいさい、現在の「秋分の日」)をはさみ二泊三日の岩手登山行をともにした師弟の間にどんなことがあったのか不明ながら、この登山行を通じて青柳先生の敬虔な精神性に触れ、ますます尊敬の念を深めたことが詩の内容から察知されます。

  文語詩の表題「青柳教諭を送る」は11月に離任した青柳先生を送るバラードの意で、9月25日に秋雨のなかを網張温泉から網張街道を下山して小岩井農場に向う青柳先生の姿を描くことによって送別のはなむけとしたものです。

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