2009年 5月 9日 (土)

       

■ 〈宮沢賢治の盛岡高農時代〉36 小川達雄 青春10

   三、続々・南昌山発見

  次は「石をくだけば」と並ぶ歌で、これも特徴的な作品であった。またあげると
 
   毒ケ森
   南昌山の一つらは
   ふとをどりたちてわがぬかに来る
                二四〇

  南昌山の北西約二キロには標高七七二メートルの毒ケ森、その北約二キロには標高八六五メートルの箱ケ森、そして毒ケ森の南約二キロには、標高八五五メートルの赤林山が押し並んでいる。賢治はそうした山々の連なりを指して、「一つら」といった。

  賢治には、自分が見たとか聞いた、など、自分の目線の中でいうのではなく、大自然そのものが動きだす、天地のドラマに即したケースが多い。この場合、賢治はその岩脈の勢いを、まさしく自分の〔ぬか〕−山々に真っ正面から向かっている自分の〔ひたい〕−で、じかに感じていた。

  ここには、太古の地質年代と、少しの隙間もなく相対した、盛岡高農生賢治がいる。少年時代の賢治は、瑪瑙や水晶のかけらや蛭石など、それを丹念に拾っていたものが、この時には山々を連続の相において把握し、しかもその深い地層の脈うつ動きを、自分のひたいで受け止めていた。バシッ、と音が出るというくらいに。

  地質学の講義は、ふつう、岩石現出の状態を最初に、火成岩産出の分類、説明から始まる。関教授の講義録は残っていないけれども、次を引き継いだ長谷川教授の講義からすると、賢治が南昌山にやって来た五月の頃は、岩漿(しょう)凝結のさまざまを、岩株、岩床、あるいは南昌山そのものである岩頚(けい)─火山に於ける噴出孔を充填したる円筒状の火成岩塊(佐藤伝蔵『岩石地質学』)−等々の状態としてノートに記した頃、と推定される。

  さて、賢治が毒ケ森、南昌山の一つらをうたったその麓に、平成六年、矢巾町では国、県の補助事業として、公園「水辺の里」を造る計画を策定した。その公園中央の歌碑には、南昌山をうたった賢治の歌二首が選定され、賢治直筆の原稿から、岩崎川産の大きな安山岩に刻み込まれた。歌碑の周囲は、「まくろなる石」にちなんで、黒い小石が敷きつめられた。

  宮沢清六氏は、公園の落成式の時に、こう語ったという。

  「兄、賢治はこの歌碑の完成を大変喜んで
  いると思う。それは無二の親友であった
  藤原健次郎と二人で、ここは何度となく
  訪れた思い出の場所であるということ。
  この矢巾の歌碑は地元の石を使うなど、
  素朴で一番喜んでいると思う。」(松本
  隆氏による)

  歌碑の前面には、緑の木々とせせらぎの岩崎川が流れ、歌碑の背後の彼方には、お椀のような南昌山がぽっかりと浮かぶ。賢治がハンマーを振った石原、鳥を吸い込むやなぎを探した一帯は、いまも当時の姿のままに広がっている。

本ページ掲載内容の無断転載を禁じます
ホームページに関するお問い合わせ、取材に関する情報は
E-Mail:hensyuu@morioka-times.com
盛岡タイムス宛てにお願いします