2009年 5月 9日 (土)

       

■ 〈保阪嘉内の短歌〉12 望月善次 憂ひなき人は憂へず

 憂ひなき人は憂へず月あはき行く春の
  夜の道を歩めり
 
  〔現代語訳〕憂いの無い人は憂えないものです。(自分はどうでしょうか。)月の光も強くない晩春の夜の道を歩いているのです。

  〔評釈〕「春日哀愁篇」十七首〔『アザリア』第1号〕の十二首目。「淡し(あはし)」の「淡」は、「色や味がうすいこと」〔『岩波古語辞典』〕で、この場合は、もちろん「色」のこと。所謂「朧月」などを考えれば良いだろう。「行く春」は、「暮れて行く春」、「晩春」のことで、古来多くの人の感慨を導き出した季節である。例えば、「過ぎ去ろうとする春のことを思うと、万感が去来し、抱えている琵琶さえもが重く感じられる」としたあの蕪村の「ゆく春やおもたき琵琶の抱きごころ」などを思い浮かべる各位もあろう。そうした意味では、十七首の標題「春日哀愁」を文字通りに示した一首だとすることもできよう。作品構成の上からは、「憂ひなき人は憂へず」の二句切れから始めるところが一つの工夫。「憂いのない人は憂いを持たないのだ」として、「憂へず」と言い切っているが、それは即ち「(話者たる)自分には憂いがある」ことを示し、その自分が歩いている場所へと続けたのである。
  (盛岡大学長)

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